中学理科1633649 views
高校化学2933198 views
LaTeX965557 views
英語617403 views
ヒストリア294981 views
いろは3025218 views
高校国語790013 views
小学理科721729 views
世界の国567435 views
MathPython501700 views
Help
Tools

English

フェルマーの最終定理の証明にあいた穴 - 正則素数とベルヌーイ数

1847 年 3 月 1 日、ラメはパリ科学アカデミーでフェルマーの最終定理の完全な証明を発表しました[1]。複素数の範囲で左辺を因数分解する、という筋書きです。

同じ席でリウヴィルが立ち、複素数の世界で素因数分解が一意になることは証明されていない、と指摘します[1]。この一言が、代数的整数論という分野を開きました。

左辺は完全に分かれる

を奇素数、 とします。 は 次式の積に分かれる。

導き方は短いものです。 の に を入れると、左辺は 、右辺は になります。

が奇数なので で、両辺の符号を払うと です。 とおいて を掛ければ、上の形になる。

ここから先の筋書きはこうです。 個の因子がたがいに素だと示し、積が なので各因子が 乗だと結論する。そこから小さい解を作り、無限降下で矛盾に持ち込む。

でオイラーが 1753 年 8 月 4 日にゴルトバッハへ書き送った証明も、同じ骨格を持っていました[1]。1770 年の『代数学』で公表した版には、まさに一意分解を仮定した箇所が残っています。

積が 乗なら各因子も 乗、という一歩

この推論は では正しい。 で が互いに素なら、素因数分解を見比べて各素数の指数が の倍数だと分かるからです。

素因数分解が一意でなければ、見比べる相手がありません。指数という言葉すら定まらない。

での推論

分解が一意なので指数が確定する。互いに素な積が 乗なら各因子も 乗

での推論

分解が一意とは限らない。指数が確定せず、同じ結論を引けない

クンマーは 1846 年の時点で、この仮定が実際に破れることを知っていました。 が、一意分解の崩れる例として挙がります[5]。

リウヴィルは 1847 年 5 月 24 日、クンマーからの手紙をアカデミーで読み上げます[1]。理想複素数によって一意性を回復し、正則素数についてはフェルマーの最終定理が成り立つ、という内容でした。

正則素数という条件

正則の定義は類数で書かれます。奇素数 が正則であるとは、円分体 の類数が で割り切れないこと[2]。

類数は計算が重い量なので、そのままでは判定に使えません。クンマーはこれをベルヌーイ数の言葉に翻訳しました[1]。

が正則であることと、 の分子がどれも で割り切れないことが同値になる。既約分数に直したときの分子を見るだけで済みます。

判定が有限回の割り算に落ちたところが、この定理のいちばんの手柄です。

類数を求めずに、ベルヌーイ数の分子を で割ってみるだけでよくなった。

が正則なら に正の整数解はない[2]。これがクンマーの定理です。

例:100 未満の非正則素数は 3 つだけ

を、 が偶数で 、かつ が の分子を割るような組とします。この組を非正則対と呼びます[3]。

最初の非正則対は 、、 の つ[3]。 未満で非正則な素数は 、、 しかありません。

について確かめてみます。

分子を で割ると で、余りが出ません。 は偶数で の範囲にも入っているので、 は非正則対です。

正則素数が無限にあるかは、いまも分かっていません[2]。いっぽう非正則素数が無限にあることは証明されています。判定条件が単純なわりに、そこから先が固い。

第 1 の場合とジェルマン

フェルマーの最終定理は、 が を割らない第 1 の場合と、割る第 2 の場合に分けて扱われてきました。第 1 の場合のほうが軽い。

ソフィー・ジェルマンは補助素数を使う方法を作り、 未満のすべての について第 1 の場合を証明します[1]。1738 年から 1840 年のクンマーまで、これが最終定理に関する最重要の結果でした[4]。

ジェルマンはガウスとの文通で、はじめ ルブラン という男性名を使っていました[4]。1806 年にブラウンシュヴァイクが占領されたあと、身元を明かす手紙を書いています。女性の科学者に向く嘲笑を恐れて名を偽っていた、と本人が説明した[4]。

1637 ごろ
フェルマーの余白の書き込み

ディオファントスの『算術』の余白に、驚くべき証明を見つけたが余白が狭すぎる、と記す。

1753
オイラーの n = 3

8 月 4 日のゴルトバッハ宛の手紙で証明を主張。1770 年の公表版に一意分解の仮定が残る。

1825
n = 5

ディリクレが 7 月に一部を、ルジャンドルが残りを示し、9 月に完成する。

1839
n = 7

ラメが解決。それまでの方法では届かず、新しい手が必要だった。

1847
ラメとクンマー

3 月 1 日にラメが発表し、リウヴィルが一意分解の仮定を指摘。5 月 24 日にクンマーの手紙が読まれる。

1995
ワイルズ

1993 年 6 月 23 日の発表、同年 12 月 4 日の撤回を経て、テイラーとの共同で 1994 年 10 月 6 日に突破口を開く。

定理は落ちても道具が残った

ワイルズの証明は円分体でも理想数でもなく、楕円曲線とモジュラー形式を経由します[1]。クンマーの路線がそのまま完成したわけではない。

それでも失敗の副産物のほうが大きく育ちました。イデアル、類数、単数群、円分体の分岐。どれもこの挑戦のなかで形になった概念です。

奇素数 が正則であることの、クンマーによる判定条件はどれですか。

  • が の分子を割ること
  • の分子がどれも で割り切れないこと
  • の類数が より小さいこと
__RESULT__

正則の定義は の類数が で割り切れないことです。これがベルヌーイ数の分子による条件と同値になります。類数の大小ではなく、 で割れるかどうかを見ます。

余白に書かれた一行が、 年かけて環と群の理論を生みました。証明されなかった時期のほうが、数学に残したものは多かったことになる。

参考文献

Fermat's last theorem - MacTutor History of Mathematics
Regular prime number - Encyclopedia of Mathematics
The Bernoulli Number Page - Bernd C. Kellner
Marie-Sophie Germain - MacTutor History of Mathematics
Cyclotomic Field - Wolfram MathWorld
1847 年 3 月 1 日、ラメがパリ科学アカデミーで完全な証明を発表し、その場でリウヴィルが穴を指摘します。$x^p + y^p = \prod_{k} (x + \zeta^k y)$ と分けたあと、互いに素な積が $p$ 乗なら各因子も $p$ 乗、と進む一歩。ここが一意分解に寄りかかっていた。クンマーは類数が $p$ で割り切れない素数を正則と呼び、$B_2, B_4, \ldots, B_{p-3}$ の分子を見るだけで判定できるようにします。$100$ 未満で漏れるのは $37$、$59$、$67$ の 3 つだけ。オイラーの $n = 3$ からワイルズまでの年表つき。