関宿

東海道の江戸日本橋から 47 番目の宿場。東の追分で伊勢別街道、西の追分で大和街道が分かれる。追分の間の約 1.8km の街道沿いに江戸から明治の町家が多く残り、1984 年に重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。

関宿は三重県亀山市にある東海道の宿場町で、江戸日本橋から数えて 47 番目の宿場です。鈴鹿山脈のふもとにあり、宿の東の追分で伊勢別街道が、西の追分で大和街道が分かれます。宿場の名は、670 年ごろに軍事のために置かれた鈴鹿の関に由来します。鈴鹿の関は愛発の関・不破の関とともに日本三関に数えられ、672 年の壬申の乱では、大海人皇子(のちの天武天皇)がこの関を閉ざしました。

いまの町並みは、天正年間(16 世紀末)に関盛信が領内の道を改修したことに始まり、慶長 6 年(1601 年)に徳川家康が定めた宿駅の制度で東海道の宿場となってから本格的に整えられました。江戸時代は旅人の行き来が多く、宿場としてたいへんにぎわったといわれます。明治の初めには参宮客も加わって繁栄が続きましたが、1900 年の名古屋駅と湊町駅の間の鉄道の全通や、参宮線の開通によって、宿場としての役目はほとんど失われました。

戦後、旧東海道の宿場の多くが昔の姿を失うなかで、関宿には宿場の町並みが残り、1980 年に地元の有志が町並み保存会をつくりました。1984 年(昭和 59 年)12 月 10 日、東の追分から西の追分までの約 1.8km の街道沿いの町並みと、その北側の社寺を含む約 25ha が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれました。全国で 20 番目、三重県では初めての選定で、1986 年には「日本の道100選」にも選ばれています。地区の建物は江戸時代と明治時代のものが約半数を占め、昭和の戦前までの伝統的な木造建築を含めると 7 割に達します。住民はここで暮らし続けながら町並みを守っており、「生活をしながらの保存」をテーマにしています。

宿場の中心だった中町には、本陣・脇本陣や大きな旅籠が集まっていました。いまも軒が高く、二階の壁を塗り込めて虫籠窓を付けた華やかな町家が多く残ります。東側の木崎は平屋やつし二階の軒の低い家が多く、西側の新所は格子や庇の幕板を備えた落ち着いた町並みで、その中ほどに地蔵院があります。東の追分に立つ大鳥居は、伊勢神宮内宮の宇治橋南詰にあった大鳥居を、式年遷宮のときに移したもので、明治 2 年からの慣わしです。毎年 7 月下旬の関宿祇園夏まつりに出る山車が立派だったことから、「これ以上のものはない」という意味の「関の山」という言葉が生まれたとされます。