松下村塾
幕末に吉田松陰が教えた私塾の塾舎で、萩市の松陰神社の境内に残る。八畳と十畳半の 2 部屋の平屋で、伊藤博文など明治維新を成し遂げた人々が学んだ。2015 年に明治日本の産業革命遺産の一つとして世界遺産に登録された。
松下村塾は山口県萩市の松陰神社の境内にある、幕末の私塾の塾舎です。長州藩の藩校明倫館で師範を務めた吉田松陰がここで教え、伊藤博文など、明治維新を成し遂げた人々が学びました。木造の平屋で、八畳と十畳半の 2 つの部屋からなり、昔の姿をよく保っています。2015 年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産に登録されました。
松下村塾は、松陰の叔父の玉木文之進が天保 13 年(1842 年)に開いた私塾に「松下村塾」と名付けたのが始まりで、幼い松陰もここに通いました。のちに松陰の外叔の久保五郎左衛門が開いた塾がその名を継ぎました。アメリカへの密航を図って野山獄に入れられた松陰は、安政 2 年(1855 年)12 月に獄を出て杉家に幽閉されると、家族らに講義を始めました。そこに近所の子弟が大勢加わるようになり、安政 4 年(1857 年)11 月、杉家の隣の小屋を改装して八畳 1 間の塾を開きました。尊皇攘夷を旨とし、儒学・兵学・史学など幅広い学問を教え、講義を聴くだけでなく、活発な議論も交わされました。
塾生には久坂玄瑞や高杉晋作らがいました。松陰は安政 5 年(1858 年)に再び野山獄に入れられ、翌年、安政の大獄で江戸へ送られて、安政 6 年(1859 年)10 月 27 日に江戸伝馬町の獄で刑死しました。その後の塾は、塾生の馬島甫仙、玉木文之進、松陰の兄の杉民治が再開しては閉じることをくり返しました。明治 9 年(1876 年)には、塾出身の前原一誠が起こした萩の変に一部の塾生が加わり、玉木文之進は自刃しています。塾は明治 25 年(1892 年)に閉じられ、50 年の歴史を終えました。
十畳半の部屋は、塾生が増えて手狭になったため、塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生が共同で増築したものです。明治 22 年(1889 年)に塾生だった人々が寄付を募って塾舎の保存を決め、1922 年(大正 11 年)10 月 12 日に国の史跡に指定されました。管理団体は松陰神社です。