レトラクトと変形レトラクト
レトラクトは位相空間とその部分空間の関係を記述する概念であり、ホモトピー論において中心的な役割を果たす。レトラクション、変形レトラクト、強変形レトラクトという3段階の強さがあり、それぞれが異なる位相的状況に対応している。
レトラクションとレトラクト
を位相空間 の部分空間とする。連続写像 が 上で恒等写像、すなわち ()を満たすとき、 をレトラクション(retraction)と呼び、 を のレトラクト(retract)という。
レトラクションは「 を に押し潰す」写像だが、 の点は動かさないという制約を持つ。包含写像 との関係で言えば、 が成り立つ。
レトラクトであることは代数的不変量に強い制約を課す。 から が従い、 は単射、 は全射となる。同様の関係がすべてのホモロジー群に対しても成り立ち、 は の直和因子となる。
レトラクトの非存在証明
レトラクトの理論が威力を発揮するのは、ある部分空間がレトラクトでないことを示すときだ。
は円板 のレトラクトではない。もしレトラクション が存在すれば は全射になるはずだが、 で なので矛盾する。
この非存在結果は Brouwer の不動点定理の証明に直結する。もし から への連続写像 に不動点がなければ、各点 から を通って まで伸ばした半直線の交点を対応させることでレトラクション が構成できるが、これは上の非存在と矛盾する。
が のレトラクトでないことを利用して、不動点の存在を背理法で示す古典的な論法。
一般に は のレトラクトではない。これはホモロジー群を用いて同様に示される。 だが だからだ。
変形レトラクト
が の変形レトラクト(deformation retract)であるとは、レトラクション が存在し、包含写像 との合成 が にホモトピックであることをいう。すなわち連続写像 が存在して
を満たす。このとき と はホモトピー同値であり、 が成り立つ。
変形レトラクトは「 を まで連続的に変形で潰せる」ことを意味する。レトラクトよりも強い条件であり、すべてのレトラクトが変形レトラクトとは限らない。
強変形レトラクト
が の強変形レトラクト(strong deformation retract)であるとは、変形レトラクトの条件に加えて、ホモトピー が 上で各時刻恒等写像であることをいう。つまり
が追加で要求される。変形の過程で の点が動かないという条件は、幾何学的に自然な状況に対応している。
で を満たすだけ。 と がホモトピー同値とは限らない。 が単射、 が全射となる代数的制約を課す。
レトラクションの条件に加えて が成り立つ。 が保証される。ただし変形の過程で の点が動く可能性がある。
変形レトラクトの条件に加えて、 の点が変形の全過程で固定される。最も自然で扱いやすい条件であり、典型的な例の多くはこれに該当する。
具体例
の強変形レトラクトは である。ホモトピー
は各点を 上の最近点に向かって連続的に移動させる。 上の点は なので となり、強変形レトラクトの条件を満たす。
メビウスの帯の強変形レトラクトはその中心線(円周)だ。帯を幅方向に中心に向かって縮めればよい。中心線上の点は動かず、帯の他の点は連続的に中心線に移動する。
結び目の管状近傍 に対して、結び目 自身は の強変形レトラクトとなる。管を中心軸に向かって縮めるホモトピーが構成できるためだ。
レトラクトだが変形レトラクトでない例
レトラクトと変形レトラクトの差は具体例で明確になる。
(2つの離れた円周の和集合)と (左の円周だけ)を考えよう。 は のレトラクトである(右の円周を左の円周の適当な点に写す定値写像と、左の円周上の恒等写像を組み合わせればよい)。しかし は の変形レトラクトではない。もし変形レトラクトならば となるが、 は連結でなく は連結なので、ホモトピー同値にはなりえない。
NDR 対
強変形レトラクトの一般化として、ホモトピー論ではNDR 対(neighbourhood deformation retract pair)が重要な役割を果たす。対 が NDR 対であるとは、 の近傍 が存在して が の強変形レトラクトとなることをいう。
CW 複体とその部分複体の組は常に NDR 対をなすという事実が、CW 複体のホモトピー論が扱いやすい理由の一つになっている。
空間全体を部分空間まで潰せる。大域的な条件であり、 が成り立つ。
部分空間の近傍だけを潰せればよい。局所的な条件であり、ホモトピー論の技術的な議論で頻出する。コファイブレーション の条件と密接に関連する。
ホモトピー同値との関係
位相空間 と がホモトピー同値であるとき、必ずしも一方が他方の変形レトラクトであるとは限らない。しかし、写像柱(mapping cylinder)の構成を用いると、任意のホモトピー同値を変形レトラクトの状況に帰着できる。
連続写像 に対して写像柱 を構成すると、 は常に の強変形レトラクトとなり、 は に自然に埋め込まれる。 がホモトピー同値ならば も の変形レトラクトとなる。この構成によって、抽象的なホモトピー同値の議論を変形レトラクトという幾何学的に直感的な状況に翻訳できるわけだ。