有限次元の固有値問題からスペクトル理論へ
線形代数で学ぶ固有値・固有ベクトルは、有限次元の行列に対する理論だ。行列 に対して を満たすスカラー と非零ベクトル を求める問題であり、対角化や Jordan 標準形といった道具と結びつく。しかし関数解析が扱う対象は無限次元のバナッハ空間やヒルベルト空間上の作用素であり、有限次元の枠組みをそのまま持ち込むことはできない。ここで登場するのがスペクトル理論である。
有限次元での固有値問題の復習
行列 の固有値とは、 を満たすスカラー のことだ。この特性多項式は 次の多項式であり、代数学の基本定理により複素数体上では必ず 個の根(重複込み)をもつ。したがって、有限次元では固有値は必ず存在し、その個数も有限個に収まる。
特性多項式が 次であるため、複素数体上で必ず根が存在する。有限次元では「固有値が一つもない」という事態は起こらない。
固有値がすべて異なれば行列は対角化可能になる。対角化できれば と分解でき、行列の累乗や指数関数の計算が格段に簡単になる。
この枠組みが強力なのは、特性多項式という代数的な道具が使えるからにほかならない。ところが無限次元空間では行列式の概念が直接的には定義できず、特性多項式を書き下すこと自体が不可能になる。
無限次元で何が崩れるか
有限次元から無限次元へ移行すると、いくつかの根本的な性質が失われる。
まず、行列式が定義できない。有限次元では を計算して固有値を求めたが、無限次元作用素に対して行列式を定義する標準的な方法は存在しない。したがって、特性多項式を経由するアプローチは使えなくなる。
次に、固有値が存在しない場合がある。有限次元では代数学の基本定理が固有値の存在を保証してくれたが、無限次元ではその保証がない。例えば、 上の右シフト作用素 を考えよう。
この作用素は単射であり、どの に対しても を満たす非零ベクトルが存在しない( のときも なら )。つまり、右シフト作用素には固有値が一つもない。
特性多項式が必ず根をもつため、固有値は常に存在する。固有値の集合は有限集合であり、代数的に完全に把握できる。
行列式が定義できず、特性多項式は使えない。固有値が存在しない作用素もあり、固有値だけでは作用素の性質を捉えきれない。
このギャップを埋めるために、固有値よりも広い概念が必要になる。それがスペクトルだ。
スペクトルとレゾルベント
バナッハ空間 上の有界線形作用素 に対して、スペクトルは次のように定義される。
スカラー が のレゾルベント集合 に属するとは、作用素 が全単射であり、かつその逆作用素 が有界であることをいう。
「 をずらした作用素が安全に逆変換できる」ことを意味する。
レゾルベント集合 に属さないスカラーの全体を、 のスペクトル と呼ぶ。式で書けば、
である。つまり、 が「うまく逆変換できない」ような の集合がスペクトルだ。
有限次元の場合、 が全単射でないことと は同値であり、スペクトルは固有値の集合と完全に一致する。しかし無限次元では、 が逆変換できない理由が複数ある。
スペクトルの分類
無限次元では、 が可逆でない原因に応じて、スペクトルを 3 種類に分類できる。
を満たす非零ベクトル が存在する場合。つまり が固有値であるケース。有限次元での固有値はここに含まれる。
は単射で、像が 内で稠密だが、 全体には一致しない場合。逆作用素は形式的に定義できるが有界にならない。
は単射だが、像が 内で稠密ですらない場合。
有限次元ではスペクトルはすべて点スペクトルに分類される。連続スペクトルと剰余スペクトルは無限次元特有の現象であり、これこそがスペクトル理論を固有値理論から区別する本質的な違いとなっている。
具体例で理解する 3 種類のスペクトル
上のいくつかの作用素で、スペクトルの各タイプを確認してみよう。
まず、対角作用素を考える。数列 に対して と定義する。 とすれば、各 は固有値(点スペクトル)になる。対応する固有ベクトルは第 成分だけが非零の標準基底 だ。ここで は固有値ではないが、 は有界にならない( となり、ノルムが発散する)。よって は連続スペクトルに属する。
の対角作用素
点スペクトルは
は連続スペクトル
この例は、スペクトルが固有値だけでは決まらないことを端的に示している。 は固有値ではないにもかかわらず、スペクトルの一部として作用素の振る舞いに本質的な影響を与えている。
先述の右シフト作用素 の場合はどうか。 には固有値が一つもないので点スペクトルは空集合だが、スペクトル自体は空ではない。実は 、つまり閉単位円盤全体がスペクトルになる。開単位円盤の内部は剰余スペクトルに、単位円周は連続スペクトルに属することが知られている。
なぜスペクトルが重要なのか
スペクトルは作用素の「振る舞いの指紋」のようなものだ。有限次元の線形代数では、行列の固有値を知れば対角化・Jordan 標準形を通じて行列の構造を完全に把握できた。無限次元でも同様に、スペクトルを調べることで作用素の性質を深く理解できる。
特に自己共役作用素の場合、スペクトル定理により作用素を「スペクトル測度による積分表示」で表現できる。これは有限次元での対角化の無限次元版にあたり、量子力学におけるオブザーバブルの理論的基盤でもある。
| 概念 | 有限次元 | 無限次元 |
|---|---|---|
| 固有値の存在 | 常に存在 | 存在しない場合がある |
| スペクトル | 固有値と一致 | 固有値を含むがより広い |
| 構造定理 | 対角化・Jordan 標準形 | スペクトル分解 |
有限次元の固有値問題を出発点として、無限次元での一般化がスペクトル理論だと理解しておけば、今後コンパクト作用素のスペクトルや自己共役作用素のスペクトル分解を学ぶ際にも見通しが立てやすくなるだろう。