スペクトル定理が意味すること
有限次元の線形代数では、実対称行列(あるいはエルミート行列)は必ず直交対角化できる。固有値を対角成分に並べた対角行列と、固有ベクトルからなる直交行列を使って と書ける、というあの定理だ。スペクトル定理は、この結果を無限次元のヒルベルト空間上の自己共役作用素に拡張したものであり、関数解析の中心的な定理の一つに位置づけられる。
有限次元での対角化を振り返る
のエルミート行列 (実行列なら実対称行列)は、 個の実固有値 と、対応する正規直交固有ベクトル をもつ。任意のベクトル は
と展開でき、 の作用は
と書ける。つまり、 は各固有方向に沿ってスカラー倍 だけ伸縮する作用素として完全に理解できる。行列全体の情報が固有値の列 に凝縮されるわけだ。
この分解を射影を使って書き直すこともできる。 を固有ベクトル 方向への直交射影とすれば、
となる。 は「各固有空間への射影に固有値を重みとして掛けたものの和」にほかならない。
無限次元への拡張で何が起きるか
ヒルベルト空間 上の自己共役作用素 (すなわち を満たす有界線形作用素)に対しても、同じような分解ができるだろうか。
コンパクト自己共役作用素の場合は、事情が有限次元にかなり近い。固有値は高々可算個で、 以外に集積点をもたず、対応する固有ベクトルが正規直交系をなす。したがって
と書け、有限次元の対角化が自然に無限和へ拡張される。
。固有値は有限個、固有ベクトルは正規直交基底をなす。
。固有値は可算個で に収束し、固有ベクトルは正規直交系をなす。
しかし、一般の(コンパクトとは限らない)自己共役作用素では、固有値が存在しない場合や、連続スペクトルが現れる場合がある。このとき「固有値 × 射影」の離散的な和では作用素を表現しきれない。
スペクトル測度という道具
連続スペクトルを扱うために、和を積分に置き換える必要がある。そのための道具がスペクトル測度だ。
スペクトル測度 とは、実数直線上のボレル集合 に対して射影作用素 を対応させる写像であり、以下の性質を満たす。
各 は 上の直交射影であり、 かつ を満たす。
(零作用素)、(恒等作用素)。
互いに素なボレル集合 に対して (強収束の意味で)。
直感的には、 は「スペクトルが集合 に属する成分を取り出す射影」だと考えるとよい。 が 1 点集合で、 が固有値であれば、 は固有空間への射影 に一致する。連続スペクトルの部分では 1 点に対応する射影は零作用素になるが、区間に対応する射影は非自明になる。
スペクトル定理の主張
自己共役作用素に対するスペクトル定理は、次のように述べられる。
ヒルベルト空間 上の有界自己共役作用素 に対して、一意的なスペクトル測度 が存在し、
が成り立つ。
この積分は、有限次元での を連続版に拡張したものだ。離散的な固有値の和が、スペクトル全体にわたる積分に置き換わっている。
有限次元:
コンパクト自己共役:(無限和)
一般の自己共役:(積分)
有限次元からコンパクトへは「有限和を無限和にする」拡張であり、コンパクトから一般へは「無限和を積分にする」拡張だ。それぞれの段階で、より広いクラスの作用素を捉えられるようになっている。
具体例で見るスペクトル分解
上の掛け算作用素 を考えよう。この作用素は自己共役であり、 が直接確認できる。
には固有値が存在しない。もし 、すなわち がほとんど至るところで成り立つならば、( の点で)となり、1 点の測度は なので ( の意味で)だ。
しかし のスペクトルは であり、すべて連続スペクトルに属する。この作用素のスペクトル測度は、ボレル集合 に対して
で与えられる。ここで は の特性関数(指示関数)だ。 は「 の定義域を 上に制限して、残りを にする」射影にほかならない。
この場合のスペクトル定理 は、 を と読み替えたものであり、掛け算作用素の自明な構造をスペクトル測度の言葉で記述し直していることになる。
スペクトル分解が掛け算という直感的な操作に対応しており、抽象的な定理の意味を具体的に確認できる例。
逆に言えば、スペクトル定理は「任意の自己共役作用素は、適切な意味で掛け算作用素と同じ構造をもつ」と主張しているとも解釈できる。
スペクトル定理から導かれること
スペクトル定理が手に入ると、自己共役作用素の関数計算が可能になる。連続関数 に対して
と定義できる。たとえば なら であり、 なら が定義される。
が正値()ならば として が定義できる。
として を定義すると、パラメータ に関するユニタリ群が得られる。これは量子力学における時間発展の数学的基盤となっている。
有限次元では、対角化 があれば と計算できた。 は対角成分に を並べるだけだ。スペクトル定理による関数計算はこの操作の一般化であり、固有値 に を適用する操作が、スペクトル測度に対する積分に拡張されている。
量子力学との接点
スペクトル定理が物理学で重要な理由にも触れておこう。量子力学では、物理量(位置・運動量・エネルギーなど)はヒルベルト空間上の自己共役作用素として表現される。測定値として得られるのはスペクトルに属する値であり、スペクトル測度 は「測定値が集合 に属する確率」と結びつく。
状態ベクトル ()に対して、物理量 の測定値が集合 に属する確率は
で与えられる。離散スペクトル(固有値)は測定で確定的な値として観測される可能性があり、連続スペクトルは確率密度を通じて現れる。スペクトル定理がなければ、この確率解釈を数学的に正当化することはできない。
有限次元の行列の対角化は線形代数の一つのテクニックにすぎないが、その無限次元版であるスペクトル定理は、数学と物理学の双方にまたがる深い構造を明らかにしている。「自己共役作用素はスペクトル測度を使って積分表示できる」という主張は、作用素の構造を完全に記述する究極的な分解定理だといえるだろう。