測度がマイナスをとったら?符号付き測度とハーン分解
測度から非負という縛りを外すと、質量ではなく電荷を測る道具になります[2]。プラスの領域とマイナスの領域が同居し、足すと打ち消し合う。
外すのは非負性だけで、可算加法性はそのまま残します。ただし一つだけ新しい制限が要ります。 と の両方を値に持つことは許しません。
この一行の制限から、符号付き測度の理論はほとんど自動的に決まります。空間が正の側と負の側にきれいに割れ、測度が二つの正測度の差に一意に分かれる。
定義を書き下す
可測空間 の上の符号付き測度とは、次の 3 条件を満たす です[5]。
3 番目の条件は、通常の測度とまったく同じ形をしています。違うのは右辺の級数が負の項を含みうる点だけ。
和が集合の並べ方によらない以上、級数は無条件収束します。有限の値なら絶対収束していることになる。
両方の無限大を許さない理由
交わらない と について 、 だったとします。
可算加法性は を要求しますが、右辺は です。値が決まりません。
条件 2 は、この破綻を入口で締め出すためのものです。片側だけなら のように計算が通ります。
副産物として、 なら のどの可測部分集合でも値が有限になります[5]。無限どうしが打ち消して有限になる逃げ道がないため。
例:正弦関数を密度にする
にルベーグ測度 を載せ、 を密度にします。
前半の山と後半の谷で値が逆になります。
全体では ですが、この集合には正の部分も負の部分もあります。値が であることと、何も起きていないことは別。

図の と が、これから作る分解の主役になります。
正集合・負集合・零集合
可測集合 が について正であるとは、 に含まれるどの可測集合 でも となることをいいます[5]。
負も零も同じ形で、不等号を 、等号を に替えるだけ。 自身の値ではなく、部分集合を全部調べる点が要です。
が正集合であるとは、 のすべての可測部分集合で値が非負になることをいいます。 だけでは足りません。
部分集合を一つ残らず調べる条件。中でプラスとマイナスが相殺していると、全体の値だけでは見抜けない。
値が正でも正集合とは限らない
さきほどの正弦の例で を選びます。
ところが部分集合 の値は です。負の部分を含むので、 は正集合ではありません。
同じ理由で から が零集合だとも言えません。 がその例。
という 1 つの集合での値。中で相殺していても構造は見えない
のすべての可測部分集合での値。相殺の余地がない強い条件
正の部分をとり出す補題
次の主張が分解の土台になります。 ならば、 を満たす正集合 がとり出せます[5]。
証明の筋は素朴で、 から負の測度を持つ部分を削り続けるというもの。削るたびに値は増えるので、削り終えた残りは値が落ちません。
各段で削る量を、そのとき削れる量の半分以上にしておきます。削り残しが積もらないための工夫。
削った量の総和が収束するので、削る量は に近づきます。残った のどの部分集合も、極限で を満たすことになる。
ハーンの分解定理
主張は短く書けます。任意の符号付き測度 に対し、正集合 と負集合 で次を満たすものが存在します[1]。
ハンス・ハーンが 1921 年に示したものです[3]。空間そのものを、符号で 2 つに割り切れるという主張になります。
証明
が をとらないとしておきます。とる場合は で考えれば同じ。証明の組み立て方は何通りか知られていて、以下は上限を達成する集合を作る型です[4]。
正集合の値の上限を と置き、 となる正集合の列を選びます。正集合の可算合併は正集合なので、 も正集合です。
単調性から が出ます。 は でないので、 は有限。
が負集合であることを背理法で示します。そうでなければ となる があり、さきほどの補題から正集合 で となるものがとれます。
すると は正集合で となり、 の定め方に反します。したがって は負集合です。
一意性は零集合を除いて
別の組 、 があったとします。このとき次の包含が成り立ちます。
左辺は の部分なので正、右辺は の部分なので負です。正かつ負であれば零集合になります。
も同じ議論で零集合です。つまり と の対称差は零で、分解は零集合の差を除いて一つに決まります[1]。
ジョルダン分解
ハーン分解を手に入れたら、測度の分解は書き下すだけです。
どちらも非負値の測度になり、 が成り立ちます。少なくとも一方は有限です。
と が零集合の差しかないので、 は分解の選び方によりません[5]。この 2 つを の正部分・負部分と呼びます。
名前はカミーユ・ジョルダンが 1881 年に扱った有界変動関数の分解に由来します[3]。
互いに特異であること
2 つの測度 、 が特異であるとは、 を交わらない と に割って 、 とできることをいいます。記号では と書きます。
ジョルダン分解の と は特異です。 は の上で 、 は の上で だから。
台が重ならないという言い方もできます。2 つの測度が別々の場所に住んでいる状態。
全変動
正部分と負部分を足したものが全変動です。
正弦の例なら です。 と比べると、相殺を許さずに絶対値で測り直した量だと分かります。
分割を使った表し方もあります。 の可算可測分割を として、次の上限が に一致します。
細かく切るほど相殺が減るので、上限で最大の粗さを拾う形。 を全変動ノルムと呼びます。
窓が真ん中をまたぐと は小さくなりますが、 は落ちません。相殺と絶対量の違いがここに出ます。
例:点質量の差
に を置きます。 は に質量 を置くディラック測度です。
を含み を含まない集合が正、その逆が負になります。分解は次のとおり。
| 正部分 | |
| 負部分 | |
| 全変動 | |
| 全変動ノルム |
に対して です。差だけを見ていると、動いている質量の総量を見落とします。
例:符号が交互に変わる級数
に数え上げ測度を入れ、 を密度にします。
正部分は偶数の項、負部分は奇数の項です。 は偶数全体、 は奇数全体になります。
全変動が有限なのは、級数が絶対収束するから。条件収束しかしない係数だと、可算加法性が壊れて符号付き測度になりません。
例:無限大を片側だけとる
にルベーグ測度を入れ、密度を次のように定めます。
で、 です。正の側だけが無限大なので、条件 2 を満たしています。
密度を でなく にすると、両側が無限大になって符号付き測度でなくなります。定義の条件が働くのはこういう場面。
ジョルダン分解は最小である
と正測度の差に書く方法は、ほかにもあります。たとえば両方に同じ有限測度を足せばよい。
そのすべてについて と が成り立ちます[1]。ジョルダン分解は、可能な分解のうちいちばん無駄のないもの。
無駄というのは、 と が同じ場所で同時に正の値を持つ部分です。特異性は、その重なりがないことを言っています。
有限符号付き測度はバナッハ空間になる
有限符号付き測度の全体は、和とスカラー倍で閉じています。ベクトル空間になるということ。
そこに全変動ノルム を入れると、完備なノルム空間が得られます[2]。
正測度の全体では、こうはいきません。 が外に出てしまうので、ベクトル空間ではなく凸錐にとどまります。
符号を許したことで、はじめて線形の道具が使えるようになる。これが非負性を外す見返りです。
符号付き測度 と可測集合 について、 から言えることはどれですか。
- は の正集合である
- は を満たす正集合 を部分に含む
- のどの可測部分集合も正の値を持つ
- の補集合は の負集合である











ν(A)>0 でも中で相殺している可能性があるので、A 自身が正集合とは限りません。ν(A) が有限なら、負の部分を削り続けて正集合をとり出せます。これがハーン分解の出発点です。