ケイリー・ハミルトンの定理|累乗・逆行列・最小多項式への応用
ケイリー・ハミルトンの定理は、正方行列がそれ自身の固有多項式を零化することを主張する。式で書けば である。
見た目は当たり前に思えるが、当たり前だと思わせる議論はたいてい間違っている。行列を変数の位置に置く操作が、そもそも何を意味するのかが問題になるからである。
定理の主張
を 次正方行列とし、固有多項式を次で定める。
これは についての 次のモニック多項式である。係数を書き出して とする。
定理の主張は、 を で置き換えた次の行列が零行列になる、というものである。
定数項には単位行列を掛ける点に注意する。 をスカラーのまま足すのではない。この読み替えが、定理を正しく述べるための最初の関門である。
固有多項式を で定める流儀もある。 が奇数なら符号が変わるが、零になるという主張には影響しない。
2 次の場合の公式
のときは公式が具体的に書ける。 の成分を次のように置く。
固有多項式は を展開して得られる。
したがって主張は である。トレースと行列式だけで書けるのが 2 次の特徴である。
この場合は直接計算で証明できる。 の 成分は 、 の 成分は 、 の 成分は である。
引き算すると になる。 成分は 、 成分と 成分も同様である。
2 次の例で確かめる
、 なので である。
を計算する。
の成分は 、 の成分は である。 の各成分は 、、、 となり、すべて になる。
3 次の例で確かめる
3 次の固有多項式は の形になる。 は 次の主小行列式の和である。
トレースは である。主小行列式は、第 1 行と第 2 行から取れば 、第 1 行と第 3 行から取れば 、第 2 行と第 3 行から取れば である。和は になる。
行列式は第 1 行で展開して である。よって固有多項式は次のようになる。
実際に を計算すると零行列になる。固有値は で、トレースと行列式が と であることとも合う。
よくある誤った証明
という「証明」を見かけることがある。これは正しくない。
左辺 は行列だが、右辺の行列式はスカラーである。等号が成り立ちようがない。
の はスカラー倍だが、 は行列の積である。 に行列を入れた時点で、もとの式とは別のものになっている。
のときだけこの議論が通る。しかしそのとき定理は という自明な主張にすぎない。
正しい道筋はこうである。 を形式的な変数と見たまま等式を係数ごとに分解し、行列の等式の列に直す。そのうえで を掛けて足し合わせる。次節がそれを実行する。
随伴行列による証明
の余因子行列を とする。成分は 次以下の の多項式である。
余因子行列の基本性質から次が成り立つ。ここまでは を変数としたままの等式である。
を の冪でまとめ、定数行列 を使って と書く。
左辺を展開し、両辺で の係数を比べる。係数はスカラーではなく行列であることに注意する。
これらは を含まない行列の等式である。ここで初めて を掛ける。第 の式に左から を掛ける。
すべて足し合わせる。左辺は と が次々に打ち消し合い、望遠鏡状に潰れて になる。
右辺の和は 、すなわち である。よって が得られる。
に を代入したのではなく、係数を比べたあとで を掛けた。この順序が誤った証明との分かれ目である。
対角化できる場合の証明
別の道も見ておく。 が対角化可能なら証明は数行で済む。
、 とする。 なので、任意の多項式 について が成り立つ。
は対角行列で、対角成分は である。
固有多項式は なので、各 で値が になる。したがって である。
よって となる。残る問題は、対角化できない行列をどう扱うかである。
三角化による証明
複素数体上では、対角化できなくても上三角化はできる。シューアの定理により を上三角行列にできる。
対角成分を とし、対応する基底を 、その先頭 本が張る空間を とする。 と約束する。
上三角であることは、 が と の元の和になることを意味する。したがって である。
については なので、次が成り立つ。
固有多項式は である。この積を右から順に に施すと、 が へ、次に へと 1 段ずつ落ちていく。
最後は に到達するので である。 なので となる。
実行列の場合も、複素行列と見て適用すればよい。成分が実なら計算結果も実である。
連続性による証明
もう 1 つ、位相を使う証明がある。複素数体上では、対角化可能な行列は全体の中で稠密である。
固有値がすべて相異なれば対角化できる。固有多項式の判別式が でないという条件は、成分の多項式が でないという条件なので、それを満たす行列は稠密である。
一方、写像 は の成分についての多項式で書けるので連続である。
対角化可能な行列の上でこの写像は零になることを前に示した。稠密な集合の上で零になる連続写像は、全体で零である。
短い証明だが、稠密性の証明を別に用意する必要がある。手軽さと自己完結性は両立しない。
高い累乗を低次に落とす
定理の実用的な帰結を見る。 はモニックな 次多項式なので、任意の多項式 を割り算できる。
を代入すると である。 が効いている。
つまり の多項式はすべて の一次結合で書ける。 以上の累乗は自動的に低次へ落ちる。
高い累乗を計算したいときは、 を で割った余りを求めればよい。行列の積を繰り返す必要がない。
フィボナッチ行列の 10 乗
、 なので である。定理から が従う。
両辺に を掛けると となる。行列の累乗がフィボナッチの漸化式に従う。
そこで と置く。、 から始めると、 はフィボナッチ数列そのものになる。帰納法で確かめられる。
、 なので次が得られる。
行列の積を 9 回繰り返す代わりに、フィボナッチ数を 2 つ求めれば済む。ケイリー・ハミルトンの定理が漸化式を生んでいる。
逆行列を求める
最初に扱った に戻る。成分は で、 だった。
これを について解く。 と因数分解できる。
両辺に を掛けて となるので、次が得られる。
を掛けると単位行列になることが確かめられる。余因子行列を使う公式と同じ答えである。
逆行列の一般公式
同じことが一般の次数でできる。定数項は である。
が正則であることと は同値になる。 を について解く。
したがって逆行列が の多項式として書ける。
逆行列が の多項式になるという事実は、それ自体が使い道を持つ。たとえば と可換な行列は とも可換である、という主張がただちに従う。
最小多項式
以外にも を零化する多項式はある。そのうち最小のものを考える。
を満たすモニック多項式のうち、次数が最小のものを最小多項式といい と書く。
存在は明らかである。 が条件を満たすので候補は空でなく、次数の最小値を取ればよい。
一意性も確かめられる。 と が同じ最小次数の条件を満たすなら、差 は次数がより低く、 を代入すると になる。零でなければモニックに直せて最小性に反するので、 である。
最小多項式は固有多項式を割り切る
より強い形で示す。任意の多項式 について、 であることと が を割り切ることは同値である。
割り算を実行する。、 と書ける。
を代入すると である。
なら となる。 ならモニックに直して最小性に反するので、 でなければならない。つまり が を割り切る。
逆向きは明らかである。 なら である。
に適用すれば が従う。単に「次数が最小だから」では足りず、割り算の原理を経由する必要がある。
最小多項式が真に小さい例
固有多項式は で 3 次である。ところが を計算すると零行列になる。
対角行列なので成分ごとに見ればよい。対角成分は順に 、、 である。
よって最小多項式は で、固有多項式より真に低い。重複した固有値でも因子が 1 回で足りている。
一般に、対角化可能であることと最小多項式が重根を持たないことは同値である。最小多項式は固有多項式より細かい情報を持っている。
最小多項式が一致する例
固有多項式は前の例と同じ である。対角成分が同じだからである。
しかし は零にならない。計算すると 成分に が残る。
したがって最小多項式は で、固有多項式と一致する。因子 が 2 回必要になっている。
違いはジョルダン細胞の大きさである。 は対角化可能、 は対角化できない。固有多項式では区別できないものを、最小多項式が区別している。
次正方行列 について、つねに正しいのはどれか。
- 最小多項式の次数は必ず である
- 最小多項式は固有多項式を割り切る
- 固有多項式は最小多項式を割り切る
- 固有多項式と最小多項式は必ず一致する
行列指数関数を求める
、 なので である。定理から となる。
これを使って を計算する。、、、 と、4 つごとに巡る。
偶数次の項は の定数倍、奇数次の項は の定数倍にまとまる。それぞれ余弦と正弦の級数になる。
成分で書くと回転行列になる。
無限級数が有限個の項に落ちたのは、 が低次に落ちたからである。連立線形微分方程式 の解が回転で書けることが、これで分かる。
冪零行列
、 なので である。定理は を主張する。
直接計算しても確かに零行列になる。この例では定理の結論が目で見える。
一般に、 次の冪零行列は固有値がすべて なので固有多項式は である。したがって が従う。
何乗で消えるかを行列ごとに調べなくても、次数から上限が分かる。冪零性の扱いが定理ひとつで片づく。
可換環の上でも成り立つ
ここまで成分を体の元として述べたが、定理は任意の可換環の上の行列でも成り立つ。
理由は証明 1 にある。あの証明が使った道具は、余因子行列の性質と多項式の係数比較だけで、割り算も固有値も使っていない。可換環で通用する操作しか現れない。
対角化や三角化を使う証明はそうはいかない。固有値の存在に代数閉体を要求するので、一般の可換環へは持ち上がらない。
可換環上の版は、有限生成加群を扱うときに使われる。中山の補題の証明にも同じ型の議論が現れる。
道具を最小限に保った証明がいちばん広く通用する、という例になっている。証明が複数あるとき、どれを覚えるかの基準にもなる。














ケイリー・ハミルトンの定理と割り算の原理から、割り切るのは最小多項式のほうです。対角行列の例のように、次数が真に小さくなることがあります。