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割り算だけがない世界|環と可換環の定義

環は、足し算とかけ算のそろった集合です。整数がその原型で、 も も整数の中に戻ってきます。

戻ってこない演算が一つだけある。割り算です。 で割ると が出てしまい、整数からはみ出す。

この「割り算だけがない」状態をそのまま公理に書き下したものが環になります。逆数を全員に配れば体、配らずに済ませれば環。分かれ目はそこだけです。

環の公理

集合 に加法 と乗法 が入っていて、次の 7 つを満たすとき を環と呼びます。乗法の記号は省いて と書く。

加法の結合則。 が成り立つ。
加法の単位元。 を満たす がある。
加法の逆元。どの にも を満たす がある。
加法の可換則。 が成り立つ。
乗法の結合則。 が成り立つ。
乗法の単位元。 を満たす がある。
分配則。 と が両方成り立つ。

前半の 4 つは、加法についてアーベル群だと言っている。 だけをとり出して眺めれば、可換な群がそこにある。

続く 2 つは乗法がモノイドだと述べています。逆元は要求しません。ここが群との分かれ目になる。

最後の分配則だけが、加法と乗法という別々の構造を結びつけています[1]。これがなければ、 と はただ同じ集合に同居しているだけの他人どうし。

分配則は面積の切り分け

分配則は絵にすると一行で終わる。縦 、横 の長方形を、横 の部分と横 の部分に切り分けるだけ。

切り分けても面積の合計は変わりません。これが の中身のすべてです。

環では左右の分配則を別々に要求する。乗法が可換とは限らないので、片方からもう片方は出てこない。

単位元をどこまで要求するか

乗法の単位元 を公理に入れるかどうかは、教科書ごとに割れています。英語圏の標準的な記述は を要求し、 のないものを rng と呼び分けます[1]。

フランス語の文献では、 を持つほうを anneau unitaire、持たないほうを pseudo-anneau と呼びます[3]。ドイツ語では Ring mit Eins と Ring ohne Eins という素直な言い分けをします[2]。

のない例はすぐ作れる。偶数全体 は加法・減法・乗法について閉じているのに、 が入っていない。

可換環論では を持つ可換環だけを扱います。極大イデアルの存在をはじめ、 がないと言えなくなる定理が多いため[3]。この記事も を要求する立場で書きます。

零環はなぜ追い出さないか

を認めると、どんな についても となり、 は ひとつだけの集合になります。これが零環です[1,2]。

つまらない環に見えますが、追い出すと不便が出ます。 を 自身で割った剰余環がこれなので、除外すると商を作るたび但し書きが要る。

零環は可換環の圏の終対象でもある。すべての環から零環への準同型がちょうど一つ存在する。

ただし整域や体からは外れる。整域の定義には が入っているためです。

例: 整数環

は環の原型です。公理を一つずつ当てても、確かめる手が止まるところがない。

かけ算の逆元だけが足りない。 の逆数 は整数の外にあります。

逆元を持つ元は と の つだけ。この つが の単元です。

例: 多項式環

係数を環 からとった多項式全体 も環になる。足し算は係数ごと、かけ算は展開して次数ごとに集める。

が可換なら も可換です。 は係数と可換な記号として置いてあるので、順番を入れ替えても値が変わりません。

が整域のとき、 の単元は の単元だけに縮む。次数が 以上の多項式に何を掛けても、次数が足し算で増えて には戻らない。

例: 2 次正方行列

体 の上の 次正方行列全体 は、可換でない環の代表です[1,4]。

順序を入れ替えると結果が変わる。

どちらも零行列ではないのに、同じ行列を 乗すると零行列になる元も入っています。可換性が落ちると、こうした振る舞いが素直に出てくる。

例: 剰余環と零因子

で割った余りの世界 を考えます。 から までの 個が元で、足し算もかけ算も余りをとって定める。

この環には、 でないのに掛け合わせると になる組がある。 と がそれで、。

を足し続けると の 点だけをめぐり、 個の目盛りを埋めません。 と が公約数を持つことが、そのまま零因子として現れています。

が素数のときは事情が変わる。 は体になり、 以外のすべての元が逆数を持つ。

可換環の定義

ここまでの 7 つに、乗法の可換則をもう一つ足します。

これを満たす環が可換環です[2,4]。整数も多項式環も剰余環も可換で、正方行列だけが仲間から外れた。

可換環論という分野では、環という語は を持つ可換環だけを指す慣例です[2]。順序を気にせずに済むので、イデアルの理論が片側だけで書ける。

零因子から整域へ

でありながら となる が存在するとき、 を零因子と呼びます[4]。

零因子を一つも持たない可換環が整域です。 も も整域で、 は整域になりません。

整域では消去法則が使える。 と から が出る。零因子がある環では、この当たり前に見える推論が壊れます。

さらに 以外のすべての元が逆数を持てば体です。体、整域、可換環と、条件をゆるめるたびに仲間が増えていく。

整域

零因子がない。消去法則が使える。逆数は持たなくてよい。 や が入る

体

以外がすべて逆数を持つ。イデアルは と全体だけ。 や が入る

体はつねに整域です。逆は成り立たない。反例は 。

単元と単数群

逆数を持つ元を単元と呼ぶ[1]。単元全体は乗法について群をなし、 と書く。

は の 個。 は と互いに素な の 個です。

体とは となる可換環にほかなりません。単元群の大きさが、環がどれだけ体に近いかを測っている。

部分環

が加法・減法・乗法について閉じていて、しかも を含むとき、 を部分環と呼びます[1]。

を含むという条件は効く。偶数全体 は加減乗について閉じているのに を含まないので、 の部分環ではない。

ガウス整数 は複素数体の部分環です[2]。整数論で素因数分解を複素数まで広げるときの舞台になる。

環準同型

環から環への写像 が加法とかけ算を保ち、さらに を満たすとき、環準同型と呼びます[1]。

をあえて課すところが要点です。これを外すと、すべてを に送る写像まで準同型になってしまい、環の圏がゆがみます。

核 はイデアルになり、像は部分環になる。群のときと同じ形の準同型定理が、そのまま成り立つ。

からどの環 へも準同型がちょうど一つあります。 の行き先が に決まってしまえば、あとは全部そこから定まるため。

イデアルで割る

イデアルは、加法について部分群であり、しかも環のどの元を掛けても外に出ない部分集合です[1]。

部分環との違いはここです。部分環は を含み、イデアルは を含みません。 を含むイデアルは全体に一致してしまう。

イデアル で割った剰余環 が作れる。 を とみなす世界で、 は で割った例そのもの。

割った先がどんな環になるかで、 の名前が決まります。整域になれば素イデアル、体になれば極大イデアル。

名前の由来

環という言葉は、ヒルベルトが 1892 年から 1897 年にかけて Zahlring と書いたところから広まりました[1]。整数の冪をとると途中で元へ「回り込む」性質を指した命名とされています。

概念そのものはデデキントに遡る。ドイツ語圏の記述では、デデキントが Ordnung という名で導入し、ヒルベルトが Ring という語を与えたと整理されています[2]。

公理として書き下したのはフレンケルの 1915 年の仕事です[1]。今のかたちに近い可換環論を立ち上げたのは、エミー・ネーターの 1921 年の論文 Idealtheorie in Ringbereichen になります[1]。

現代の圏論的な言い方では、環はアーベル群のテンソル積を積とするモノイド対象です[5]。可換環はその可換なもの。

よくある誤り

かけ算の逆元は要求されません。要求すると体になり、 が仲間から外れます。
から または は導けません。整域だと分かっているときにだけ使える推論です。
分配則を片側だけ確かめても足りません。可換とは限らない以上、左右は別の条件になります。
は の部分環ではありません。 を含まないためです。
零環を「環ではないもの」と扱うと、剰余環のたびに例外が増えます。 を許す立場が扱いやすくなります。
可換環でも 以外の等式が勝手に成り立つわけではありません。 が成り立つ環も、成り立たない環もあります。
環準同型では が定義に入っています。加法とかけ算を保つだけでは足りません。

参考文献

Ring (mathematics)(英語版 Wikipedia)
Ring (Algebra)(ドイツ語版 Wikipedia)
Anneau (mathématiques)(フランス語版 Wikipedia)
Anillo (matemáticas)(スペイン語版 Wikipedia)
ring(nLab)
足し算とかけ算はできて、割り算だけができない。その状態を 7 つの公理に書き下したものが環です。分配則が面積の切り分けにすぎないことを図で示し、単位元を要求するかどうかで流儀が割れる事情、零環を残す理由、整数・多項式・正方行列・12 で割った余りの環という 4 つの例を並べます。零因子から整域へ、整域から体へと条件を絞る道すじと、Zahlring という名の由来まで。