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アケメネス朝の王位:カンビュセスの死からダレイオス一世へ

アケメネス朝の二百年で、キュロス大王の男系はわずか二代で絶えている。三代目の王ダレイオス一世は、キュロスの遠い親戚にすぎなかった。その弱さをどう埋めたかが、この王朝の形を決めた。

キュロスの帝国

アケメネス朝は紀元前六世紀の半ば、キュロス二世がメディアを倒して興した。リュディア、新バビロニアを次々に併せ、オリエントの大半を一人の王のもとに置く。キュロスはバビロンでは解放者としてふるまい、捕囚のユダヤ人に帰還を許した。前五三〇年、東方の遊牧民との戦いで没する。

跡を継いだのは長子のカンビュセス二世であった。

カンビュセスとバルディヤ

カンビュセス二世は前五二五年にエジプトを征服し、アケメネス朝の版図はここで最大に近づいた。ところがエジプトに三年とどまるあいだに、本国で異変が起きる。

ヘロドトスの伝えるところでは、カンビュセスはエジプトへ発つ前に弟のバルディヤを密かに殺させていた。その死は伏せられていたので、バルディヤを名乗る者が現れて王位を主張したとき、諸州はこれを受け入れてしまう。カンビュセスはエジプトから引き返す途中、前五二二年に没した。

ダレイオス一世がベヒストゥンの崖に刻ませた碑文も、ほぼ同じ話を伝えている。バルディヤはすでに兄に殺されており、王位を奪ったのはガウマータという名のマゴス僧であった、と。ただしこの碑文は勝った側の記録である。実際に立ったのが本物のバルディヤで、それを討ったダレイオスの側が話を作ったという見方も、古くから論じられてきた。

七人の貴族

ダレイオスは六人の貴族とともに偽王を討ち、前五二二年に王位についた。ヘロドトスは、このとき七人が国の形を論じ合ったと記す。民衆による政治、少数の貴族による政治、一人の王による政治のどれがよいかという議論である。結論は王政となり、次は誰が王になるかが問題になった。夜明けに馬に乗って集まり、最初にいなないた馬の主を王とすると決め、ダレイオスの馬丁が細工をして主を勝たせた、という話が続く。

作り話の匂いは強いが、ここに一つの事実が透けている。ダレイオスは、王家の血ではなく、有力な貴族たちの合意によって立ったということである。ともに戦った六家はその後、王に自由に会える特権を与えられ、代々の重臣となった。

問題は、ダレイオスがキュロスの子でも孫でもないことである。父はヒュスタスペス、祖父はアルサメスで、キュロスとは共通の祖先までさかのぼらないとつながらない傍系であった。しかも即位したとき、父も祖父も存命だった。父を越えて子が王になっている。

即位ののち一年余り、帝国の各地で反乱が続いた。ベヒストゥン碑文は、ダレイオスが十九の戦いに勝って九人の王を捕らえたと記す。碑文は古代ペルシア語・エラム語・アッカド語の三つで刻まれ、のちに楔形文字を解く鍵になった。血筋の弱い王が自分の正しさをくり返し刻ませたことが、思わぬ形で後世の役に立ったことになる。

婚姻による正統化

ダレイオスは血筋の弱さを婚姻で補った。キュロス二世の娘アトッサを妃に迎えたのである。アトッサは兄カンビュセスの妻でもあり、その後は王位を奪った者の妻ともなっていた人で、キュロスの血を伝える立場にあった。ダレイオスはほかにキュロスの娘アルティストネも娶っている。

跡を継いだクセルクセス一世は、このアトッサが生んだ子である。ダレイオスには先妻の生んだ年長の子もいたが、選ばれたのはキュロスの血を引く子だった。生まれた順ではなく、母方の血筋が跡継ぎを決めたことになる。

その後

ダレイオスは帝国を二十ほどの州に分けて総督を置き、王の道を敷き、金貨を定めた。ギリシアへの遠征はマラトンで退けられ、クセルクセスが引き継いだ遠征もサラミスとプラタイアで破れる。

以後のアケメネス朝では、王位をめぐる争いが宮廷の内側で起きるようになった。クセルクセス一世は近臣に殺され、その後も王の暗殺と兄弟の争いがくり返される。最後のダレイオス三世はアレクサンドロスに敗れ、逃げる途中で部下のベッソスに殺された。二百年余り続いた帝国は、王が臣下に殺される場面で始まり、同じ場面で終わったことになる。

諸王の王

ダレイオスは自らを諸王の王と呼び、碑文ではその正統をアケメネスという祖先までさかのぼって示した。キュロスの家と自分の家は、このアケメネスで一つになるという主張である。アケメネス朝という呼び名そのものが、ダレイオスの立てた系譜に由来する。

血筋が近ければ、わざわざ遠い祖先の名を持ち出す必要はない。系譜を声高に語る王は、たいてい系譜に弱みを抱えている。ベヒストゥンの碑文が、三つの言語で、崖の高いところに、誰にも消せない形で刻まれたことは、そのまま王の不安の大きさでもある。