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メディチ家:銀行家から大公とふたりの王妃へ

メディチ家は王家ではない。フィレンツェの商人の家である。それが二人の教皇と二人のフランス王妃を出し、最後にはトスカーナ大公の家になった。家系図を追うと、金から信仰へ、信仰から婚姻へと、この家が寄りかかる先を乗り換えていった様子が見えてくる。

銀行から始まった

ジョヴァンニ・ディ・ビッチが一三九七年に銀行を開き、教皇庁の資金を扱う特権を得たことで家は大きくなった。両替と為替と預金を各地の支店で回す仕組みを持ち、ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドンに支店を置いている。

政治の表には立たない、というのがジョヴァンニの方針であった。フィレンツェは共和国であり、目立ちすぎた家は追放される。

国父コジモ

子のコジモは一四三三年、対立する家に追放された。ところが翌年、市の世論が変わって呼び戻される。この一四三四年の帰還が、メディチ家による実質的な支配の始まりである。

コジモは高い官職につかなかった。共和国の制度をそのまま残し、選挙の袋に入れる名前を選ぶところだけを押さえた。表向きは一市民のまま、実際には都市を動かす。この形が三代続く。コジモは死後、市から「国父」の称号を贈られた。

豪華王ロレンツォ

コジモの子ピエロは痛風に苦しんで在位が短く、その子ロレンツォが二十歳で家を継いだ。豪華王と呼ばれ、自らも詩を作り、学者と芸術家を集めた。ボッティチェッリやミケランジェロが世に出たのは、この家の庇護による。

一四七八年、パッツィ家が大聖堂のミサの最中にロレンツォと弟ジュリアーノを襲った。パッツィ家の陰謀である。ジュリアーノは殺され、ロレンツォは傷を負って逃れた。背後には教皇シクストゥス四世がいた。ロレンツォは報復ののち、単身ナポリへ渡って王と談判し、包囲を解いている。

一方で銀行は傾いた。ロレンツォは商人としてはよい経営者ではなく、支店は次々に閉じられていく。家の力は、金よりも人のつながりへ移っていった。

二人の教皇

ロレンツォは次男のジョヴァンニを十三歳で枢機卿にした。これがのちの教皇レオ十世である。パッツィ家に殺されたジュリアーノの子ジュリオも枢機卿となり、教皇クレメンス七世となった。一族から二人の教皇が出たことで、フィレンツェとローマは同じ家で結ばれる。

追放と復帰

そのあいだフィレンツェでは、家が三度追われている。ロレンツォの長男ピエロはフランス王シャルル八世の侵入に屈して一四九四年に追放され、サヴォナローラの時代が来た。一五一二年、レオ十世となる枢機卿ジョヴァンニが外国の軍を背に立ち戻る。一五二七年、ローマ劫掠で教皇クレメンス七世が捕らわれると、その隙に市は再び共和国へ戻った。

三度目の復帰は力ずくであった。クレメンス七世は皇帝カール五世と手を結び、一五三〇年、十か月の包囲のすえにフィレンツェを降した。教皇が皇帝の軍で自分の生家の町を攻めさせたことになる。以後フィレンツェは共和国の名を捨て、アレッサンドロが公として置かれた。

二人の王妃

ロレンツォの曾孫にあたるカテリーナ・デ・メディチは、クレメンス七世の取りはからいで一五三三年にフランス王家へ嫁いだ。夫はのちのアンリ二世で、その三人の子が続けてフランス王となる。

もう一人がマリア・デ・メディチ、トスカーナ大公フランチェスコ一世の娘である。一六〇〇年にアンリ四世に嫁ぎ、その子がルイ十三世となった。商人の家から、フランス王の母が二人出たことになる。

大公家へ

一五三七年、フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺され、コジモ国父の直系が絶えた。呼ばれたのが傍系のコジモ一世である。国父の弟ロレンツォ(イル・ヴェッキオ)の子孫で、父は傭兵隊長ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレであった。

コジモ一世は共和国のかたちをやめ、一五六九年にトスカーナ大公となる。表向き一市民として都市を動かしていた家が、ここではっきりと君主の家になった。大公家は一七三七年に断絶するまで続く。銀行家として始まり、二人の教皇と二人の王妃を出し、最後は大公の家として終わったことになる。

家が残したもの

一七三七年、最後の大公ジャン・ガストーネが子を残さずに没し、メディチ家の男系は絶えた。その妹アンナ・マリア・ルイーザは、一族が集めた美術品のすべてをトスカーナに残し、国外へ持ち出してはならないと定める協定を結んでいる。ウフィツィやピッティ宮の収蔵品が散らずに残っているのは、この一通の取り決めによる。

銀行は傾いて消え、大公家も絶えた。三百年ののちに残ったのは、この家が買い集めた絵と彫刻であった。

王家でない家がここまで続いた例は、ヨーロッパでもほとんどない。家系図の上では、商人の家が三百年かけて君主の家へ変わっていく過程がそのまま見える。