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朝鮮王朝の簒奪:王子の乱と癸酉靖難

朝鮮王朝は開いてから六十年のあいだに、二度、力のある親族が年少の後継者を兵で退けている。一度目は弟を、二度目は甥を。どちらも家系図の上では、本来なら王位が届かないはずの枝が伸びた形になる。

開国と世子

高麗の末、李成桂は倭寇と紅巾賊を破って名を上げた武将である。一三八八年、遼東へ攻め入るよう命じられた軍を威化島から引き返させ、実権を握った。四年後に王位につき、国号を朝鮮と改める。太祖である。

子は多く、先妻の神懿王后韓氏に六人、後妻の神徳王后康氏に二人を生ませている。高麗を倒す戦いで最も働いたのは、韓氏の生んだ五男の芳遠であった。

ところが太祖は、康氏の生んだ末子の芳碩を世子に立てた。新しい王朝で世子を誰にするかは、単なる家の問題ではない。開国の功臣たちにとっては、これから誰の下で仕えるかを決める選択であった。功臣の筆頭である鄭道伝が幼い芳碩を推したのは、王が幼ければ宰相が国を運べるという考えがあったからである。功のある兄たちからすれば、これは筋が通らない。

王子の乱

一三九八年、芳遠は兵を挙げて鄭道伝を殺し、異母弟の芳蕃と芳碩も殺した。第一次王子の乱である。太祖は位を退いたが、芳遠はすぐには即位せず、次兄の芳果を立てた。定宗である。自分が世子を殺してそのまま即位すれば、簒奪がそのまま形になってしまう。

一四〇〇年、今度は四兄の芳幹が兵を挙げた。第二次王子の乱である。芳遠はこれを破って芳幹を流し、同じ年に定宗から位を譲られて即位した。太宗である。太宗は私兵を廃して兵権を王に集め、功臣も外戚も容赦なく削った。妻の閔氏の一族も、世子の外戚になりうるという理由で処断されている。

世宗へ

太宗の世子ははじめ長男の譲寧大君だったが、行いを咎められて廃され、次男の孝寧大君も出家した。立てられたのは三男の世宗である。世宗の代に訓民正音(ハングル)が作られ、暦も測器も整えられた。朝鮮王朝で最もよく知られた王である。

世宗には多くの子がおり、長男が文宗、次男が首陽大君、三男が安平大君であった。首陽は武に、安平は文に長けていたと伝えられる。世宗は子たちに仕事を分け与えて用いたが、それは同時に、王位に就かない王子が力と人脈を持つということでもあった。

癸酉靖難

文宗は在位二年で病没し、一四五二年、十一歳の端宗が立った。母は生まれてすぐに亡くなり、後見にあたる王室の年長の女性もいない。幼い王を守る者がいなかったことが、この後の展開を決めた。政は宰相の皇甫仁と金宗瑞が執り、彼らは安平大君に近かった。

一四五三年、首陽大君は金宗瑞と皇甫仁を殺し、安平大君を流したうえで死を賜わせた。癸酉靖難である。首陽は一四五五年に端宗から位を譲られて即位した。世祖である。

翌一四五六年、成三問ら六人の臣が端宗の復位をはかって露見し、処刑された。死六臣と呼ばれる。仕官を退いて生涯を隠れて過ごした金時習らは生六臣と呼ばれた。端宗は魯山君に落とされて寧越へ流され、一四五七年に死を賜った。十六歳であった。

二度くり返した形

家系図に置き直すと、朝鮮王朝の初めに同じ形が二度あらわれている。どちらも、正統に立てられた年少の後継者を、力のある年長の親族が兵で退けたものである。太宗は弟の世子を、世祖は甥の王を退けた。

違いは、退けた側がその後どう見られたかである。太宗は王権を固めて世宗の治世の土台を作ったと評価される。世祖も官制を整え、経国大典の編纂を始めさせたが、幼い甥を殺したことは長く語り継がれた。端宗が王として認められ、廟号を贈られたのは、それから二百四十年余りのちの粛宗の代である。死六臣の名誉も同じときに回復された。

書いて残す

朝鮮王朝は実録を編み、王の言動を細かく書き残した。史官の記録は王にも見せず、代が替わってから編纂する決まりであった。世祖が甥から位を奪った経緯も、そこに書かれている。都合の悪い出来事を消すのではなく、書いて残す。そのことが、のちの世の評価をやり直す余地を残した。

端宗が流された寧越には、いまも荘陵と呼ばれる墓がある。粛宗の代に王として認められ、端宗という廟号が贈られた。死六臣を祀る祠も同じころ建てられている。勝った側が書いた記録ではあるが、負けた側の名も消されなかったところに、この王朝の性格が出ている。

世祖の子孫はその後も王位を継いだ。ただし王位をめぐる争いの形は変わっていく。十六世紀に入ると、争うのは兄弟や叔父と甥ではなく、王妃を出す家門どうしになった。血の近さで力ずくで奪い合う時代は、開国からおよそ百年で終わったことになる。端宗の死からおよそ二百四十年、名誉が回復されるまでにかかった時間は、王朝そのものの寿命の半分近い。