奈良時代の皇位は、天武天皇の子孫が持っていた。しかし百年たたずに絶え、天武に敗れた天智天皇の子孫へ戻る。図をたどると、その百年のあいだ天智の血が絶えていたわけではないことが分かる。天智の娘たちは、天武の系統に嫁として入り続けていた。
六七二年、天智天皇の子の大友皇子と、天智の弟の大海人皇子が争い、大海人が勝って天武天皇となった。壬申の乱である。以後の皇位は天武の子孫が継ぐ。
ところが天武の后の持統天皇は天智の娘である。二人の子の草壁皇子に嫁いだ元明天皇も、やはり天智の娘だった。図では持統を天智の下に置き、天武を配偶者として並べてある。天武系の皇統は、始まりから天智の娘が生んだ子で続いている。
勝った側と負けた側が、婚姻で一つになっていたことになる。壬申の乱は皇統を二つに割らず、片方をもう片方の中へ入れた。天皇家の中の争いが家の分裂にならなかったのは、この重ね方のためである。
草壁皇子は即位する前に没した。孫の軽皇子が成人するまで持統がみずから位に就き、渡したのが文武天皇である。その文武も若くして没し、母の元明天皇、姉の元正天皇と二代の女帝が続いて、ようやく文武の子の聖武天皇へ渡った。
女帝が並ぶのは、女性が政治を望んだからではない。直系の男子が育つまで位を空けられないので、近い血筋の女性が席を預かった。中継ぎとしての即位である。図で女帝が縦に連なるのは、その代の男子が早く死んだ跡でもある。
文武の夫人の藤原宮子は藤原不比等の娘で、その子が聖武である。聖武の后の光明皇后も不比等の娘だった。父と娘の二代で、藤原氏は天皇の外祖父の座を続けて取っている。
光明子は臣下の家から出た初めての皇后とされる。飛鳥の蘇我氏が始めた型を、藤原氏がここで受け継いだ。平安の摂関政治は、この時点ですでに形が見えている。
七二九年、天武の孫にあたる長屋王が謀反の疑いをかけられ、自害させられた。訴え出たのは不比等の四人の子である。長屋王は天武系の有力な男子で、皇位に近い立場にあった。
この事件のあと、光明子が皇后に立てられている。天武系の男子が減ることと、藤原氏の娘が皇后になることが、同じ時期に起きた。図で聖武の下が孝謙だけになっているのは、周りの枝が細くなった結果でもある。
聖武と光明子の子の孝謙天皇は、いったん退いたあと重ねて位に就いた。しかし子がない。皇位を僧の道鏡へ譲ろうとしたと伝えられ、和気清麻呂が宇佐八幡の神託を持ち帰ってこれを退けた話が残る。
真偽はともかく、この話が語り継がれたことに意味がある。血のつながらない者が継げば、系図という原則そのものが壊れる。継ぐ者がいないという行き詰まりが、そこまでの案を生んだ。
七七〇年に孝謙が没して、天武の系統は絶えた。迎えられたのは、天智の子の施基皇子の子である光仁天皇である。すでに六十を過ぎていた。図の右下にある短い枝がそれで、天智から三代しか下っていない。天武系が六代を重ねているあいだ、この枝はほとんど皇位に近づかないまま残っていた。
光仁の子が桓武天皇で、七九四年に平安京を開く。天武系が皇位を持っていた年数と、平城京が都だった年数はおおよそ重なる。桓武が都を移したのは、天武系と結びついた奈良の寺社や貴族から離れるためだったともいわれる。
系統が変われば、都も変わる。皇統の切り替わりが、そのまま都市の移転になった。
壬申の乱で敗れた側の血が、百年かけて戻ってきたことになる。ただし系図の上では、これは断絶ではなく復帰である。天智の娘たちが天武系を産み続けていたので、どちらへ転んでも天智の血は途切れていない。奈良時代の皇統が細く見えるのは、男系の線だけを追うからである。
系図は線の引き方で見え方が変わる。父から子への線だけを追えば、天武系は六代で切れ、皇位が遠い枝へ飛んだように見える。母方の線も引けば、天智の血は一度も途切れていない。
図はこの二つを同時に見せる。縦につながる線が男系で、配偶者として横に並ぶ名が婚姻である。持統と元明という二人の女性を横に置くだけで、勝った側と負けた側が最初から重なっていたことが読める。
系図を男系だけで読むのは、片方の線しか見ないことになる。奈良の百年は、両方を見て初めて筋が通る。天武と天智という二つの名で語られる百年は、図の上では一つの家の中の出来事だった。壬申の乱の勝敗が決めたのは、誰が位に就くかであって、誰の血が残るかではなかった。