室町幕府は京にあったが、東国にはもう一つ、幕府に似た組織があった。鎌倉府である。長は将軍家の分家が世襲して鎌倉公方と呼ばれ、その補佐役の関東管領は上杉氏が世襲した。この二つの家はやがて正面から争う。東国が戦国に入るのは、応仁の乱よりも早い。
一三四九年、足利尊氏は子の足利基氏を鎌倉へ下した。兄の足利義詮は京に残り、のちに二代将軍になる。兄弟で東西を分けた形である。
鎌倉に置いた理由は分かりやすい。前の幕府の地であり、関東には御家人の家が集まっている。京から遠いこの地を押さえるには、代官では足りず、将軍家の血を持つ者を置く必要があった。鎌倉府は関東八か国と伊豆・甲斐を管轄し、独自の奉行と評定を持つ。小さな幕府といってよい。
補佐に据えられたのが上杉憲顕である。以後、関東管領は上杉氏の世襲になった。
なぜ上杉なのか。系図の左の枝を見ると分かる。上杉氏は藤原氏の流れで、上杉重房が宗尊親王の鎌倉下向に従って東へ来た家である。その孫の上杉清子が足利貞氏に嫁ぎ、尊氏と直義を生んだ。つまり上杉氏は足利氏の母方であり、憲顕は尊氏の従兄弟にあたる。
分家を東に置き、その補佐に外戚を付ける。血で二重に固めた配置である。
血が近いということは、資格が近いということでもある。
二代の足利氏満は、一三七九年の康暦の政変で幕府が揺れたとき、京へ攻め上ろうとした。関東管領の上杉憲春が自害して諫めたことで思いとどまっている。三代の足利満兼は、一三九九年に大内義弘が幕府に背いたとき、これに呼応して兵を動かした。義弘が敗れたため引き返している。
鎌倉公方は将軍になり得る血を持っている。持っているからこそ、京から見れば最も危険な相手だった。
一四一六年には、前の関東管領の上杉禅秀が公方に背いて兵を挙げた。禅秀は上杉の一族でも犬懸家の当主で、憲顕から続く山内家とは別の枝である。公方の足利持氏は一時鎌倉を追われ、幕府の助けを得てようやく戻った。
上杉氏は一つの家ではなく、山内・扇谷・犬懸・宅間の四つに分かれていた。関東管領の職はそのあいだを回り、やがて山内家が独占する。補佐役の家が複数あることは、公方にとって選べる相手が増えることでもあり、敵に回る枝が増えることでもあった。
決裂は四代の持氏で起きた。一四二八年に将軍足利義持が没したとき、持氏は自分が継ぐつもりでいた。実際にはくじ引きで義持の弟が選ばれ、六代将軍義教となる。
持氏は義教の元号を使わず、幕府との対立を深めた。関東管領の上杉憲実は繰り返し諫めたが聞かれず、一四三八年に領国の上野へ退いた。幕府は憲実を助けるという名目で軍を出し、持氏は敗れて翌年に自害する。永享の乱である。
補佐役が本国へ帰り、幕府を呼んだ。関東管領がどちらを向いていたかが、ここではっきりした。
持氏の遺児は一四四〇年からの結城合戦でも殺されたが、末の子だけが生き残り、一四四九年に鎌倉公方へ戻った。足利成氏である。
成氏は父を死なせた上杉氏を許さなかった。一四五四年、関東管領の上杉憲忠を鎌倉へ呼び寄せて謀殺する。翌年から享徳の乱が始まった。
この乱は二十八年続く。応仁の乱が始まる十二年前に始まり、応仁の乱が終わってからも六年続いた。東国の戦国は、ここから数えるのがふさわしい。
成氏は鎌倉を追われ、下総の古河へ移った。以後は古河公方と呼ばれる。幕府は代わりの公方として足利政知を送ったが、鎌倉へ入れず伊豆の堀越に留まった。堀越公方である。公方が二人並んだことになる。
上杉氏も割れた。山内上杉家と扇谷上杉家が争い、家臣の長尾景春が反乱を起こし、扇谷の家宰の太田道灌がこれを鎮めた。その道灌も、のちに主君に殺されている。関東は公方も管領も二つに割れたまま、収拾がつかなくなった。
一四九三年、伊勢宗瑞、のちの北条早雲が堀越公方を攻め滅ぼした。関東に新しい家が入り込む隙は、この分裂が用意したものである。
古河公方はその後も続くが、実権を失い、北条氏の後ろ盾で保たれる立場になった。
関東管領のほうは、山内上杉憲政が越後へ逃れ、一五六一年に長尾景虎へ家督と関東管領職を譲った。上杉謙信である。上杉という名と関東管領という職だけが、血のつながらない越後の武将へ渡った。
足利の東の枝も上杉の職も、家として残ったのではなく名として残ったのである。
尊氏が東に分家を置いたのは、遠国を治めるための現実的な策だった。血の近い者を置けば裏切りにくい。補佐に母方を付ければさらに固い。
ところが血が近いことは、その者に将軍の資格があることでもある。氏満も満兼も持氏も、京を狙える立場にいた。補佐役の上杉氏は、公方を助ける役でありながら、公方が幕府に背けば幕府の側に立つ役でもあった。二つの役割を一つの家に負わせたことが、最後に両方を壊している。
東国を分けて置いた策は、およそ百年もった。もったあいだは有効であり、壊れるときは幕府本体より先に壊れた。