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近代の皇室:側室の制をやめた皇統

明治より前、天皇の子の多くは皇后ではない女性が生んでいた。皇統が長く続いたのは、后が一人ではなかったからでもある。明治から大正にかけてその制がやみ、皇統の幅は目に見えて狭くなった。図を縦に見ると、その狭まり方がそのまま出ている。

側室が支えた継承

江戸時代までの天皇には典侍と呼ばれる女官が仕え、その子が皇位を継ぐことも多かった。皇后に子が生まれなくても、別の女性が生んだ皇子が継げば線は切れない。継承の安全は、后の数で買われていた。

孝明天皇の子で成人したのは睦仁親王だけである。母は権大納言の娘の中山慶子で、皇后ではない。図で孝明天皇の配偶者に中山慶子を置いてあるのは、そこから線が伸びているからである。

図の右下にいる和宮は仁孝天皇の皇女で、孝明天皇の妹にあたる。幕末に将軍の徳川家茂へ嫁いだ。皇女を武家へ出すことも、家をつなぐ手段の一つだった。

宮家という予備

継げる男子が細ることに対しては、古くから備えがあった。世襲親王家、のちの宮家である。本家の血が絶えたときに、そこから迎える。江戸時代には閑院宮の系統から光格天皇が出ており、実際に働いた仕組みでもある。

図には出していないが、大正天皇の四人の男子のうち三人が宮家を立てている。秩父宮、高松宮、三笠宮である。本家の外に枝を張っておくという古い考え方が、近代にも続いていた。

明治天皇の子

明治天皇と皇后の昭憲皇太后のあいだに子はない。明治天皇には五人の典侍とのあいだに十五人の子がいたが、多くが幼くして没した。成人した男子は嘉仁親王ひとりで、その母は柳原愛子である。

十五人から一人。側室の制があってなお、この細さである。逆にいえば、側室がなければこの代で線は切れていた。

一夫一妻へ

嘉仁親王が大正天皇として即位し、貞明皇后とのあいだに四人の男子をもうけた。昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王である。

側室を置かずに四人の男子が育ったのは、この代が初めてになる。図でこの四人が横に並ぶところだけ幅が広いのは、医療と衛生が変わって幼くして死ぬ子が減ったからでもある。継承の安全は、后の数から別のものへ移りつつあった。

皇后の位置が変わる

側室の制がやむと、皇后の役割も変わる。それまでの皇后は必ずしも次の天皇の母ではなく、后の一人という側面があった。昭憲皇太后に子がなかったことがその例で、それでも皇后であることに支障はない。

貞明皇后からは、皇后が次の天皇の母であることが常態になる。図で配偶者の欄が皇后の名に切り替わるのは、この変化の跡である。中山慶子と柳原愛子は皇后ではなく、貞明皇后は皇后である。同じ位置に置いてあっても、意味が違う。

幅は何で決まるか

側室の制がやんだあと、継げる男子の数は、その代に一人の后が生んだ男子の数がそのまま上限になる。一人の后が生む子は多くて数人で、そのうち男子は半分ほどである。継ぐのは一人でよいが、生まれなければ線は切れる。側室の制は、この確からしさを人為的に上げる仕組みだった。

やめる理由はあった。一夫一妻が近代の規範になり、皇室もそれに合わせている。ただし規範を変えれば、継承の条件も変わる。制度の変更が系図の形を変えた例として、この百年ほどはっきりしたものは少ない。

系図が条文になる

一八八九年、皇室典範が定められ、皇位は男系の男子が継ぐと条文に書かれた。それまで慣行として運ばれてきたものが、明文の規則になる。誰が継げるかを系図で判定する仕組みが、ここで完成した。

継体天皇を応神天皇の五世孫として迎えたとき、資格を決めたのは系図だった。近代はその同じ問いを、条文で処理することにしたことになる。判定の基準がはっきりしたぶん、基準に合う人がいるかどうかという問題も、はっきり見えるようになった。

系図で見るということ

近代の皇室を語るとき、制度の話と血筋の話は別々に扱われることが多い。皇室典範は法の話、誰が誰の子かは家の話とされる。しかし図に描けば、その二つは同じものになる。

条文は、図のどの線をたどってよいかを決めている。男系の男子と書けば、縦の線のうち父から息子へ向かうものだけが生き、母を経由する線は使えない。線の引き方そのものを条文が指定する形である。

側室の制がやんだことは、図に描ける名の数を減らした。条文は、その減った名のうちさらに一部だけを有効にした。二つの変化は別々に起きているが、図の上では同じ方向へ働いている。近代の皇統が細く見えるのは、そのためである。

系図で見るとは、制度と血筋を同じ図の上に置いて眺めることである。近代の皇室は、その二つが初めて明文で結ばれた例だった。