魏の帝位を奪って晋を建てた司馬氏は、曹氏が一族を抑えたせいで滅びたのを間近で見ていた。だから今度は一族を各地の王に立て、兵を持たせた。その結果、皇帝の一族どうしが十六年戦い、統一からわずか三十六年で北の中国を失う。八王の乱である。図に並ぶ王は、ほとんどが司馬懿の子か孫か曾孫である。
曹操の子孫は、一族に力を持たせなかった。諸侯王は封地に置かれても兵を持たず、監視された。だから司馬氏が実権を握ったとき、助けに立つ皇族がいない。魏は二代で司馬氏へ移っている。
司馬炎は二六五年に晋を建てると、逆のことをした。叔父・弟・子を二十人以上、各地の王に封じ、それぞれに軍を与える。皇室を守るのは皇室の血だという考えである。
与えたのは称号だけではない。大国の王には五千、小国の王にも千五百の兵を置くことが認められ、任地の軍政にも関わった。都に近い王は中央の官職を兼ねる。名目の封建ではなく、実際に動かせる軍が二十以上、皇室の枝ごとに置かれたことになる。
司馬炎の跡を継いだ司馬衷は、政務を執れる人ではなかった。飢えた民の話を聞いて、なぜ肉粥を食べないのかと問うたという逸話が残る。
実権は皇后の賈南風が握った。賈南風は外戚の楊氏を倒し、次いで自分の産んだ子でない皇太子司馬遹を廃して殺す。三〇〇年のことである。皇太子殺しは、兵を持つ王たちに動く名分を与えた。
賈南風が十年ももったのは、皇帝が判断しないほうが都合のよい者が多かったからでもある。名目の主が空だと、その空白を誰が埋めるかで揉める。皇后が埋めているあいだは一応おさまっていた。埋めていた者が皇太子を殺した瞬間に、外から埋めに来る資格を持つ者が二十人いた。
争いに加わった主な王が八人いたので、八王の乱と呼ぶ。汝南王司馬亮と趙王司馬倫は司馬懿の子、楚王司馬瑋・長沙王司馬乂・成都王司馬穎は武帝の子、斉王司馬冏は武帝の弟である司馬攸の子である。
残る河間王司馬顒と東海王司馬越は、少し遠い。司馬顒は司馬懿の弟である司馬孚の孫、司馬越はもう一人の弟である司馬馗の孫にあたる。図の左右に離れて立っている枝がそれで、いちばん遠い枝の司馬越が最後まで残った。
順を追うと、司馬亮が倒され、司馬瑋が殺され、司馬倫が帝位を称して敗れ、司馬冏が倒され、司馬乂が焼き殺され、司馬穎が追われ、司馬顒が殺される。三〇六年に司馬越が司馬衷を毒殺したところで乱は終わった。
十六年のあいだ、皇帝は名目として立ったままである。誰も皇帝を替えようとせず、皇帝を手元に置く権利のほうを争った。名目の主を残して実権だけを取る型が、ここでは一族の内側で回されている。
王たちは足りない兵を北方の遊牧の民から借りた。匈奴・鮮卑・羯の集団が、恩賞を約束されて中国の内戦に引き込まれる。
乱が終わったとき、残っていたのは疲れきった晋の軍と、戦い慣れた外の軍だった。三一一年に匈奴の劉聡が洛陽を落として皇帝を捕らえ、三一六年には長安も落ちる。晋は南へ逃れて建康で立て直した。東晋である。北の中国は、そこから百三十年ほど諸国の争う場になる。
南へ渡った東晋の皇帝は、司馬懿の子である司馬伷の孫にあたる司馬睿である。図でいえば、争いの中心から離れたところにいた枝である。都から遠かったので生き延び、争いが終わったときには最も近い血になっていた。備えとして置いた枝のうち、実際に働いたのは、誰も当てにしていなかった一本だった。
曹魏は一族を抑えて、外から乗っ取られた。西晋は一族を放して、内から崩れた。同じ問題に反対の答えを出して、どちらも失敗している。
一族に力を持たせれば、その力は簒奪を防ぐと同時に、簒奪を試みる力にもなる。血が近いということは、忠実である理由にも、資格を主張する理由にもなるからである。
この図で目を引くのは、争った八人が同じ段に並んでいないことである。司馬懿の子の世代と、その曾孫の世代が、同じ戦場で殺し合っている。世代の順序が権利の順序にならないので、誰が上かを決める基準がどこにもない。
分家を残さなければ家は絶え、残せば争いになる。徳川が御三家を作り、源頼朝が兄弟を消したのも、この同じ問いへの別々の答えだった。晋の答えは、備えを置きすぎたほうの極である。備えは、それを使う順序が決まっているあいだだけ備えでいられる。順序が壊れれば、備えの数はそのまま争う者の数になる。二十以上の王を置いた時点で、その順序を保つ仕組みのほうを、晋という王朝はまるで用意していなかった。