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ティムール朝:チンギスとティムールの血がバーブルで合わさる

中央アジアでは、チンギス・ハンの子孫であることが君主の資格だった。ティムールはその子孫ではない。バルラス部という、モンゴルに従った一部族の出である。だから彼は生涯、ハンを名のらなかった。代わりにチンギス家の女性を妻に迎え、婿を意味するキュレゲンと称した。図の根にいるこの男の血が、五代あとのバーブルでチンギスの血と合わさる。

名のれなかった称号

ティムールは一三七〇年にサマルカンドを押さえ、以後三十五年で西アジアから北インドまでを荒らして回った。デリーを落とし、オスマン軍を破ってスルタンを捕らえている。

それだけの力を持ちながら、公式にはアミール、つまり将軍にとどまった。ハンの位には、名目としてチャガタイ家の者を立てている。北条氏が将軍にならず執権に留まったのと同じ形である。

資格のない者が位を取れば簒奪になる。位のほうは血を持つ者に残し、実権だけを握るほうが安全だった。

ティムールが娶ったのは、チャガタイ家のカザン・ハンの娘である。この結婚があってはじめて、彼はキュレゲンと名のれた。婿という肩書きが、生涯で最も重い称号だったことになる。

四人の子

図の二段目に、ティムールの四人の子が並ぶ。長子ジャハーンギールは父より先に死に、ウマル・シャイフも遠征中に没した。

ミーラーン・シャーは落馬のあと精神を病んだとされ、シャー・ルフがヘラートで帝国を立て直す。シャー・ルフの子ウルグ・ベクはサマルカンドに天文台を築き、その観測表は二百年ヨーロッパでも使われた。学者として名を残した君主だが、息子に殺されている。

分けて、削り合う

ティムールの死後、帝国は子と孫のあいだで分けられ、そのたびに争われた。チンギス家がウルスを分けたのと同じ形だが、こちらは範囲が狭く、削り合う速さが速い。

一五世紀の半ば、ミーラーン・シャーの系統からアブー・サイードが出て一度まとめ直す。図でいえば、いちばん見込みの薄かった枝が本流になった場面である。

そのアブー・サイードも遠征で敗れて殺され、領土はまた子たちに分かれた。フェルガナという小さな谷を得たのが、子のウマル・シャイフ・ミールザーである。

二つの血が合わさる

ウマル・シャイフ・ミールザーの妻クトルグ・ニガールは、モグーリスタンのユーヌス・ハンの娘だった。ユーヌス・ハンはチャガタイ家、つまりチンギスの子孫である。

二人の子が一四八三年に生まれたバーブルである。父方でティムールの五代の孫、母方でチンギスの子孫にあたる。ティムールが婿として借りるしかなかった血が、五代あとの当主には初めから入っていた。

追われた末に

バーブルは十二歳でフェルガナを継いだが、サマルカンドを二度取って二度失い、故地からも追われた。行き場を失って南へ下り、一五〇四年にカーブルを押さえる。

一五二六年、パーニーパットでロディー朝を破ってデリーに入った。ムガル帝国である。ムガルという呼び名はモンゴルの訛りだが、バーブル自身はティムールの後継を名のっていた。子のフマーユーンから、この帝国は三百年続く。

遠くへ行った枝が残る

中央アジアのティムール朝は、一五〇〇年ごろウズベクのシャイバーニー朝に取られて終わった。本国は消え、追い出された枝がインドで帝国を作ったことになる。

晋の皇族が南へ逃れて東晋を立てたのと、形は似ている。中心にいた枝が潰され、外へ弾かれた枝だけが生き延びる。図の下へ長く伸びた一本が、そのまま帝国の続きになった。

バーブル自身は、インドを気に入っていなかったと書き残している。果物がまずく、水も悪く、庭がないと繰り返し嘆いた。故郷へ戻る力はもうなく、代わりに庭を作った。追われた先で始めた帝国が、結果として本国の何倍も長く続いている。

図の読み方

この図には、チンギスの側の線が描かれていない。クトルグ・ニガールという名前が一つあるだけである。

しかし当時の人にとって、その一つが決定的だった。バーブルは自分の回想録の中で、父方の家柄と母方の家柄を別々に語っている。二つの血を持つことは、二通りの資格を持つことであり、どちらの土地でも君主として通るということだった。

インドへ入ったあとも、ムガルの皇帝は自分たちをティムールの家と呼び続けた。中央アジアの故地はとうに失っている。土地を失っても系図は残るので、家の名のりだけは三百年変わらなかった。

祖先が誰かということは、事実であると同時に主張でもある。ティムールが婿を名のったのも、バーブルが二つの家柄を並べて書いたのも、系図のどこを見せるかを選んでいる点では同じである。持っている血のうち、その場で効くほうを前へ出す。