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浅井三姉妹:織田・豊臣・徳川をつないだ血

織田・豊臣・徳川の三家は、戦って順に入れ替わっただけではない。血でつながっている。つないだのは、織田信長の妹のお市の方が近江の浅井長政との間に生んだ三人の娘である。図の下に横に並ぶ三人が、そのまま三つの家への入口になっている。

お市の方と浅井長政

信長は妹のお市を浅井長政に嫁がせ、近江との同盟を結んだ。婚姻は同盟の証しであり、当時のもっとも普通のやり方である。

しかし長政は一五七〇年に信長へ背いた。朝倉との古い関係を選んだためとされる。三年後、小谷城が落ちて浅井家は滅び、長政は自害する。お市と三人の娘は信長のもとへ引き取られた。図で長政の枝が娘たちだけになっているのは、この滅亡のためである。

婚姻は離反を防がなかった。同盟の証しとしての縁組は、この時点では役に立っていない。

二度の落城を生き延びる

浅井が滅びたあと、お市は柴田勝家に嫁いだ。しかし一五八三年、勝家は賤ヶ岳で羽柴秀吉に敗れ、お市は勝家とともに北ノ庄で死ぬ。三人の娘だけがまた引き取られ、今度は秀吉のもとへ入った。

二度、家が滅びるところに居合わせ、二度とも娘たちだけが残っている。三姉妹がのちに三つの家へ入ったのは、この二度の生き残りの結果である。

信長の家はどうなったか

図の左の枝は、信長の子の織田信忠で止まっている。信忠は一五八二年の本能寺の変で信長とともに死んだ。織田家は当主と後継を同時に失い、秀吉が信忠の子を担いで実権を握る。

血を遠くまで運んだのは、信長の直系ではなく妹の系統だった。図の左が短く、右が下まで伸びているのは、その結果である。

三人の行き先

三姉妹はそれぞれ別の家へ入った。

  • 茶々(淀殿)— 豊臣秀吉の側室。秀頼を生む
  • — 京極高次の妻
  • — 徳川秀忠の妻。家光を生む

長女が豊臣へ、三女が徳川へ入っている。図をたどると、豊臣秀頼徳川家光は母どうしが姉妹なので、従兄弟にあたる。天下を争った二つの家の当主が、同じ祖母を持っていたことになる。

次女の初が嫁いだ京極高次は近江の名門の出で、関ヶ原では東軍に付いた。姉が豊臣、妹が徳川に入っているあいだ、次女は両方から少し離れた家にいたことになる。大坂の陣では、初が和議の使者として城へ入ったと伝えられる。姉と妹のあいだに立てる位置にいたのは、三人のうち初だけだった。

血がつないでも戦は起きる

一六〇〇年の関ヶ原、一六一四年から翌年の大坂の陣で、豊臣と徳川は戦った。大坂城が落ち、淀殿と秀頼は死ぬ。豊臣家は絶えた。

姉の子と妹の子が争い、妹の子が勝った。血縁は戦を止める力を持たない。

江の血が残る

三代将軍の家光は、母を通じて浅井とお市の血を引く。江の娘の和子は後水尾天皇に嫁ぎ、その子が明正天皇として即位した。徳川の血が天皇家にも入ったことになる。

信長の妹から出た血が、将軍にも天皇にも届いた。滅びた浅井の家からいちばん遠くまで伸びたのは、家名でも所領でもなく、娘たちだった。

婚姻は何をしたのか

戦国の婚姻は同盟の道具である。しかしこの一族を見ると、道具としてはほとんど働いていない。お市と長政の縁組は浅井の離反を防げず、淀殿と秀吉の縁も豊臣を守れなかった。

理由は簡単で、家の存続と個人の縁が別だからである。当主は家を代表して判断し、家にとって不利になれば縁を切る。長政が信長に背いたとき、優先されたのは妻の実家ではなく古い付き合いのほうだった。

婚姻が効いたのは、争いを防ぐ場面ではなく、争いが終わったあとである。滅びた家の娘が勝った家に入り、その血が次の代へ渡る。図の三本の枝のうち、いちばん下まで伸びているのが江の枝であることが、その働き方を示している。

三姉妹という語り方

浅井の三姉妹をまとめて語るのは、後世の見方でもある。同時代には、豊臣の側室と京極の妻と徳川の御台所が、それぞれの家の人として扱われた。三人を一つの単位として見ると、離れていた三つの家が線でつながって見えてくる。

系図はその見方を助ける。個々に追えば、淀殿は豊臣の人であり、江は徳川の人である。図に並べれば、二人は姉妹であり、その母は信長の妹である。同じ事実が、並べ方で違う意味を持つ。

家系図の効き目は、別々に語られてきた人を同じ紙の上に置くところにある。三姉妹はその分かりやすい例で、織田・豊臣・徳川という三つの章立てが、実は一つの家の話でもあったことが見えてくる。

織田から豊臣へ、豊臣から徳川へという流れは、ふつう三つの家の交代として語られる。図はその流れの下に、切れずに続いた一本の線があることを示している。交代したのは家名であって、血ではなかった。三姉妹の母のお市が、三つの時代のどれにも祖母として残っている。