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前漢の外戚:呂后から王莽まで

前漢は二百年続いたが、その二百年は外戚の歴史でもある。皇帝が若くして死に、幼い子が立ち、母である太后が政務を執り、太后の実家が権力を握る。この型が繰り返された末に、最後の外戚が皇位そのものを取った。

図に根が三本あるのは、皇帝の家と、二つの外戚の家を並べたからである。左の枝が漢の皇統、真ん中が呂氏、右が王氏にあたる。

建国者の妻

劉邦は農民から身を起こして皇帝になった。皇后の呂后は、劉邦がまだ亭長にすぎなかったころに嫁いだ女性である。

劉邦は晩年、寵姫の生んだ子を太子に立て替えようとした。呂后は功臣を味方につけてこれを阻む。前一九五年に劉邦が死ぬと、呂后の子が恵帝として立った。

太后が統治する

呂后はまず寵姫の子を毒殺し、その母の手足を断って人彘と呼ばせた。恵帝はこれを見て病み、政務を執らなくなって、前一八八年に二十三歳で死ぬ。

呂后は幼い皇帝を立て、自ら朝廷に臨んで政令を出した。臨朝称制と呼ばれる形で、中国で女性が公然と統治した最初の例である。八年続いた。

同時に呂沢をはじめとする呂氏の一族を諸侯王に封じた。劉邦は生前、劉氏でない者を王としないと群臣に誓わせている。呂后はこれを破った。

反動

前一八〇年に呂后が死ぬと、功臣の陳平と周勃、それに劉氏の諸侯が兵を挙げ、呂氏の一族を皆殺しにした。

代わって立てられたのが劉邦の子の文帝である。母は寵愛が薄く、実家も弱かった。外戚が力を持たない皇帝が選ばれたことになる。外戚の害を目の前で見た直後の選択として、筋は通っている。

型は消えなかった

文帝と景帝の治世は安定し、その子の武帝が五十四年在位した。武帝もまた外戚を使っている。皇后衛子夫の弟の衛青、その甥の霍去病が、匈奴への遠征を担った。

武帝の末年、巫蠱の獄で皇太子の衛太子が死んだ。前八七年に武帝が没すると、八歳の昭帝が立ち、霍光が輔政する。霍光は霍去病の異母弟で、やはり外戚の系統である。

霍光は昭帝の死後、一度立てた皇帝を二十七日で廃し、代わりに衛太子の孫を宣帝として立てた。皇帝を選ぶ側に外戚が立っている。その霍光が死ぬと、霍氏もまた族滅された。

外戚が権力を握り、皇帝が代わると一族が滅ぼされる。前漢はこの循環を繰り返した。

なぜ繰り返したのか

外戚が力を持つには、三つの条件がそろう必要がある。皇帝が若くして死ぬこと、次の皇帝が幼いこと、そしてその母が生きていることである。前漢ではこの三つがそろいやすかった。

皇帝の在位はそれほど長くなく、後宮が大きいので子は多いが、太子が成人するまで父が生きているとはかぎらない。幼い皇帝には後見が要る。制度のうえでその役を担えるのは母である太后で、太后が頼れるのは自分の実家しかない。

つまり外戚は、制度の穴から生まれたのではなく、制度が指定した役だった。だから功臣が呂氏を滅ぼしても、霍氏を滅ぼしても、次の外戚がまた出てくる。人を替えても、役はなくならない。

四代の太后

宣帝の子の元帝の皇后が、王政君である。

王政君は長命だった。夫の元帝のあと、子の成帝、その甥の哀帝、さらに平帝と、四代にわたって皇太后・太皇太后の座にあり続けた。六十年近く宮廷の最上位にいたことになる。

そのあいだ、王氏の一族が高位を占めた。王政君の兄弟が次々に大司馬となり、朝廷の中枢は王氏で埋まる。

甥が皇位を取る

王莽は王政君の甥である。父の王曼が早く死んだため、一族のなかでは恵まれない立場から出発した。倹約と学問で評判を取り、推挙を集めて前八年にいったん大司馬となり、退けられたのち前一年に返り咲く。

王莽は幼い平帝を立て、自分の娘を皇后にした。皇帝の外祖父ではなく、舅である。平帝が西暦五年に死ぬと二歳の子を立てて摂政となり、八年、禅譲を受けて皇帝になった。国号を新とする。

禅譲は儒教の理想に沿った形式である。武力で奪ったのではなく譲られたのだ、という体裁を整えた。王政君は玉璽を渡すことを拒み、投げつけたと伝えられる。自分の一族が漢を終わらせることまでは望んでいなかった。

藤原氏との違い

娘を入れ、生まれた子を位に就け、外祖父として実権を握る。この型は日本の藤原氏がしたことと同じである。藤原氏は前漢より七百年あとに、同じ手順を使った。

違うのは終わり方である。藤原氏は皇位を取らなかった。取れなかったのか、取る必要がなかったのかは議論があるが、結果として天皇家は残り、藤原氏も残った。

王莽は取った。そして十五年で滅び、漢は劉秀によって再興される。皇位まで進んだ外戚は、その一代で終わった。位を取らずに外戚であり続けるほうが、家としては長く保つ。前漢と日本を並べると、そのことがはっきり見える。