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後北条五代:伊勢の家が北条を名のって関東の主になるまで

戦国の関東を治めた後北条氏は、もともと関東の家ではない。初代の伊勢宗瑞は京の幕臣の出で、駿河の今川を頼って東へ下った他国者である。その家が五代で相模・武蔵・上総まで押さえた。図をたどると、この家がやったことは名を変えることと、子を近隣へ配ることの二つに尽きる。

他国から来た家

宗瑞は伊勢盛時といい、幕府の申次衆をつとめた伊勢氏の一族である。姉妹が今川義忠の妻となった縁で駿河へ下り、今川の家督争いを収めて興国寺城を得た。素性の知れない浪人という古い像は、近年の研究であらためられている。

一四九三年、宗瑞は伊豆へ討ち入り、堀越公方の足利茶々丸を攻めた。堀越公方は足利将軍家の枝であり、関東を治めるために京から送られた家である。宗瑞はその枝を伊豆から消した。関東で最初にしたことが、正統を名のる家を倒すことだった。

伊勢から北条へ

二代の氏綱は一五二三年ごろ、姓を伊勢から北条へ改めた。鎌倉で執権をつとめた北条氏の名である。血のつながりはないが、鎌倉の北条は関東を治めた家として名が通っていた。

他国者が関東を治めるには、関東を治めたことのある名が要る。氏綱は鶴岡八幡宮の再建にも力を入れている。名と土地の記憶を借りて、正統をあとから作ったことになる。

古河公方の外戚になる

氏綱は娘を古河公方の足利晴氏へ嫁がせた。その子義氏が古河公方を継ぐ。関東の名目の主である公方の外祖父が、北条氏綱になった。

蘇我も藤原も鎌倉の北条も、主君の家に娘を入れて外戚となることで実権を握っている。後北条は同じ型を関東で使った。晴氏がのちに反北条へ回ったときも、北条は晴氏を退けて外孫の義氏を立てるだけでよかった。名目の主を替えられる側に立てば、名目の主の意向はもう脅威ではない。

子を近隣の家へ入れる

三代氏康は、子を近隣の家の名跡に次々と入れた。氏照は武蔵の大石氏、氏邦は武蔵の藤田氏を継いでいる。滅ぼした家の名を残し、そこへ自分の子を据えると、その土地の家臣はそのまま従う。

娘の早川殿は今川氏真へ嫁ぎ、子の氏政は武田信玄の娘黄梅院を迎えた。甲相駿三国同盟である。もう一人の子上杉景虎は、越後の上杉謙信の養子に入った。同盟の相手が変わるたびに、北条の子がひとりずつ送り出されている。

送った子が帰ってくる

一五六八年に武田が駿河へ攻め入ると同盟は崩れ、氏政は黄梅院を武田へ帰した。今川が滅びると早川殿も小田原へ戻る。謙信の死後、上杉景虎は謙信のもう一人の養子である景勝と争って敗れ、自害した。

婚姻や養子は、結んでいるあいだは守りになるが、切れたときには人が帰ってくるか死ぬかのどちらかになる。配った子の数だけ、崩れたときの損も大きい。

徳川と結ぶ

四代氏直は徳川家康の娘督姫を妻に迎えた。甲斐と信濃をめぐって争ったあとの講和である。関東の主が東海の主と結んだ形で、西から来る力への備えでもあった。

しかし一五九〇年、豊臣秀吉が二十万を超える兵で小田原を囲む。三か月で城は開き、氏政は切腹、氏直は高野山へ送られた。翌年に赦されたが、まもなく病で没している。督姫は徳川へ戻り、のちに池田輝政へ嫁いだ。

末弟の氏規は幼いころ今川の人質として駿府にあり、同じころ人質だった徳川家康と面識があったとされる。小田原の講和で徳川との窓口になったのは氏規である。人質に出された子が、四十年後に家の命綱になった。氏規の子孫は河内狭山で一万石を与えられ、後北条の家名は江戸時代を通じて残っている。

家督争いが起きなかった家

五代百年のあいだ、後北条には家督をめぐる内輪の争いがない。戦国の大名としては珍しい。当主は生前に家督を譲って隠居し、隠居した父と当主の子が並んで政務を執る形を繰り返した。氏綱も氏康も氏政も、この形で代を渡している。

跡を継ぐ者を早く決め、決めたあとも父が後ろに残る。武田は義信を、伊達は稙宗と晴宗を、上杉は景勝と景虎を争わせた。同じ時代に隣り合っていた家がそろって跡目で割れているなかで、後北条だけが割れなかったのは、この段取りによる。

名で作った正統

後北条は関東の血筋を持たなかった。持たない側が正統を作るには、名を借り、婚姻で主君の家の内側へ入り、子を各地の家名へ入れていくしかない。氏綱の改姓も、晴氏への嫁入りも、大石や藤田の名跡を継がせたことも、同じひとつのやり方である。

五代でそれは形になった。しかし名で作った正統は、上から来る力には効かない。関東でどれだけ正統らしくなっても、天下の側から見れば、小田原は従わないひとりの大名である。図の百年は、名を集めた百年であり、名だけでは足りないことを最後に示した百年でもある。