神代の天照大神から今上天皇まで、父から子へたどれる線だけを抜き出すと、系図は一本の縦線になる。枝も傍系も落としてあるので、途中で分かれた家も、位に就いた兄弟も、女性の天皇も出てこない。今上天皇の父、その父、そのまた父と、ひたすらさかのぼった線である。
段の数は七十八。上の五段が神代で、神武天皇から今上天皇までが七十三段になる。この七十三段のあいだに、皇位は百二十六代を数えている。代の数と世代の数が合わないのは、位が父から子へ渡るとはかぎらないからである。兄から弟へ、叔父から甥へと横に渡るたびに、代だけが増えて世代は進まない。
天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊、そして神武天皇。神と人のあいだは五段しかない。瓊瓊杵尊が高天原へ降り、その孫の代で人の世の初代が生まれる。
この短さは意図されたものである。長くすれば神との距離が開き、短くすれば血の濃さが薄まらない。五代は、神の子孫だと言い切れるぎりぎりの長さとして置かれている。
神武のあと、綏靖から開化までの八代は、名と系譜と在位年しか伝わらない。のちに欠史八代と呼ばれる部分である。図の上ではまったく同じ形の箱が八つ並ぶ。
系図の役目が切れていないことを示すことである以上、中身が空でも役目は果たされる。むしろこの区間は、系図が事績の記録ではないことをいちばんはっきり見せている。
武烈天皇に子がなく、大和の中に継ぐ者が見つからなかった。迎えられたのが越前の継体天皇で、応神天皇の五世孫とされる。
図では応神天皇から稚野毛二派皇子、意富富杼王、乎非王、彦主人王と四人をはさみ、五段下ってようやく継体に届く。今の感覚でいえば、血縁としてはほとんど他人である。それでも即位できたのは、応神につながると系図で示せたからだった。この五段は、系図が資格そのものだったことの証拠として図に残っている。
称徳天皇に子がなく、天武天皇の男系が絶えた。そこで持ち出されたのが、壬申の乱で位を離れてから百年近く経っていた天智天皇の血である。天智の子の志貴皇子、その子の白壁王が擁立されて光仁天皇になった。
図の上では天智から二段下るだけだが、時間では百年近くさかのぼっている。系図は距離を段の数で測るので、こうした時間の跳躍は形に出ない。図がまっすぐに見えるところほど、実際には大きく動いていることがある。
図には母を書いていないが、醍醐天皇から後朱雀天皇までの五段は、母が続けて藤原氏の娘である。胤子、穏子、安子、詮子、彰子と並ぶ。摂関政治とは、この母方の列が一つの家で埋まった状態のことをいう。
次の後三条天皇の母は禎子内親王で、久しぶりに藤原氏の娘ではない。院政が始まるのは、その子の白河からである。縦線の形は何も変わらないのに、線を通す仕組みはここで入れ替わっている。
後嵯峨天皇のあと、皇統は後深草の持明院統と亀山の大覚寺統に割れ、やがて北朝と南朝になる。明治政府は南朝を正統と定めたが、いま続いているのは北朝の血である。図は後深草、伏見、後伏見、光厳と、そのまま北朝側を下っていく。
正統とされた側と、続いた側が違う。系図は正しさを決めるものではなく、残ったものを示すだけである。
崇光天皇の子の栄仁親王は位に就かず、伏見宮という家を立てた。その孫の彦仁王が、称光天皇に子がなかったために迎えられ、後花園天皇になる。皇位が宮家から本家へ戻った最初の例である。
同じことが江戸時代にもう一度起きる。東山天皇の子の直仁親王が閑院宮を立て、その孫の兼仁王が、後桃園天皇に男子がなかったために迎えられて光格天皇になった。閑院宮は新井白石の建議で立てられた家で、まさにこの用途のために用意されていた。
図の中で「天皇」と付かない段は、神代の五段を除いて十ある。日本武尊、稚野毛二派皇子から彦主人王までの四人、志貴皇子、そして栄仁親王・貞成親王・直仁親王・典仁親王である。皇統が切れずに済んだ理由は、この位に就かなかった人たちのところに集まっている。
こうして見ると、一本の線は自然に続いたものではない。五世孫を探しに行き、百年前の血に戻り、予備の宮家を二度使って、ようやく途切れずに来ている。線が細く長いのは、切らさないための手が繰り返し打たれた結果である。
図の縦線は、続いた事実を示すだけで、続いた理由は示さない。理由は、線が不自然に細くなっているところ、すなわち継体、光仁、後花園、光格の四か所に集まっている。この四つの結び目を見つけられれば、この長い一本の図は読めたことになる。