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玄武門の変と武則天:唐の皇位が二度書き換えられた

唐の皇位は、始まって百年のあいだに二度、系図の外から書き換えられた。一度目は弟が兄を殺して太子の座を奪い、二度目は皇后が自ら帝位に就いて国号まで変えた。どちらも唐がもっとも栄えた時期に起きている。

三人の兄弟

李淵は隋末の混乱に乗じて挙兵し、六一八年に唐を建てた。挙兵と統一戦争でもっとも功のあったのは次男の李世民である。だが太子は長男の李建成だった。

長幼の順で決まる以上、功績は資格にならない。建成は弟の力を削ごうとし、三男の李元吉と組んだ。

六二六年六月四日

李世民が先に動いた。宮城の北門である玄武門に兵を伏せ、参内してきた二人を待ち伏せて射殺する。続けて建成と元吉の子、あわせて十人を皆殺しにした。血筋を残せば、いつか復讐の名分になるからである。

二か月後、李淵は李世民に譲位した。太宗である。その後の二十三年は貞観の治と呼ばれ、唐の基礎が固まった。骨肉を殺して得た位のうえに、中国史でも屈指の治世が乗っている。

自分の子でも同じことが起きる

太宗自身の後継も揉めた。太子の李承乾が謀反を企てて廃され、次の候補も退けられる。太宗が最後に選んだのは、争いに加わらなかった九男の李治だった。

弱い者を選んだという見方もある。兄弟が殺し合うのを見た父が、殺し合わない子を選んだ、と読むこともできる。

父の女を娶る

李治は高宗として即位した。皇后には王氏を迎えたが、のちに廃し、武則天を皇后に立てる。

武則天はもともと太宗の才人、つまり父の後宮にいた女性である。太宗の死後は尼になっていたのを、高宗が呼び戻した。父の女を子が娶ることは、儒教の規範では許されない。それでも通ったのは、高宗自身が押し切ったからである。

高宗が病みがちになると、武后が政務を代行した。二人を並べて二聖と呼ぶ。

皇后が皇帝になる

六八三年に高宗が没した。武后は子の中宗を立てて五十五日で廃し、次に睿宗を立てて、これにも実権を与えなかった。

六九〇年、武后は睿宗に譲位させ、自ら皇帝の位に就く。国号を周と改めた。中国の歴史で、女性が正式に皇帝を称したのはこの一度だけである。

このとき武后は、後継を甥の武氏にするか、子の李氏に戻すかを迷った。臣下は、甥に継がせれば宗廟で叔母を祀る者はいなくなる、と説いた。祖先の祭祀は男系の子孫が行うものだからである。武后は李氏に戻すことを選んだ。血の流れではなく、死後に祭られるかどうかで決めたことになる。

武則天は何を変えたか

武則天の治世は、内側の粛清が多いことで知られる。密告を奨励し、酷吏を使って官僚を大量に処刑した。李氏の宗室もほとんど殺されている。

その一方で、科挙の合格者を積極的に登用した。門閥の家柄に頼れない立場だったので、家柄で選ばれない官僚を集めるほうが都合がよかったのである。関隴貴族と呼ばれる建国以来の門閥は、この時期に大きく力を削がれた。

血で王朝を替えようとした人物が、結果として血で選ばれない官僚の道を広げたことになる。次の開元の治を支えたのは、その官僚たちだった。

女が権力を持つ形が続く

七〇五年、臣下が兵を挙げて中宗を復位させた。唐が戻る。

ところが今度は中宗の皇后である韋后が実権を握った。七一〇年、韋后が中宗を毒殺したと伝えられ、睿宗の子の李隆基が兵を挙げて韋后を討つ。さらに武則天の娘の太平公主も権力を争い、七一三年に李隆基へ討たれた。

玄武門から八十七年のあいだに、皇位をめぐる殺し合いが四度起きている。そのうち三度で、女性が当事者だった。

唐の後宮が持った力

なぜ唐で女性がこれほど政治に出たのか。一つは、皇帝が病んだり幼かったりすると後宮の最上位者が代行する仕組みが、制度として認められていたことである。前漢の呂后や王政君と同じ構造で、太后の臨朝は例外ではなかった。

もう一つは、唐の皇室が北方の遊牧系の血と習慣を引いていたことが挙げられる。父の女を子が娶る形も、漢族の規範から見れば異例だが、遊牧社会では珍しくない。

武則天が例外的なのは、代行にとどまらず位そのものを取った点である。呂后も王政君も、皇帝にはならなかった。

そして玄宗

七一三年に李隆基が玄宗として実権を握り、開元の治と呼ばれる時代になる。争いはここでいったん収まった。

だが玄宗の晩年には楊貴妃とその一族が重用され、安史の乱で唐は傾く。後宮と外戚をめぐる同じ問題が、形を変えて戻ってきた。乱を起こした安禄山は、楊貴妃の養子という形をとっていたと伝えられる。血のつながらない者を家の内側へ入れる作法が、ここでも使われていた。

皇位を系図の外から書き換えることは、唐では二度成功している。成功したぶん、次も可能だと誰もが知っていた。玄武門の変が残したのは、貞観の治だけではなかった。