戦国の大名は近隣の家と縁を結んで身を守った。奥羽でそれを最も広く行ったのが伊達稙宗である。子女を次々に近隣へ入れ、南奥州から出羽までを縁戚で覆った。そしてその縁組が原因で、稙宗は嫡男と六年戦うことになる。図の枝が横へ大きく広がっているのは、この家が縦よりも横へ伸びる政策を取ったためである。
稙宗は伊達氏の十四代当主で、分国法である塵芥集を定めた人である。男女あわせて二十人を超える子があったとされる。当時の大名としても多い。
多いことを、稙宗は資源として使った。娘は近隣の家へ嫁がせ、息子は跡取りのいない家へ養子として送り込む。相手の家の次の代に自分の血が入れば、その家は伊達と戦いにくくなる。毛利が吉川と小早川へ子を入れたのと同じ考え方だが、稙宗はそれを一族丸ごとに広げた。
娘は相馬顕胤、蘆名盛氏、田村隆顕らへ嫁いだ。相馬は伊達の南、蘆名は会津、田村は三春である。息子のひとりは大崎氏へ入って大崎義宣と名のり、二階堂や葛西にも縁が及んだ。
これで奥羽の主だった家のほとんどが、伊達の姻戚か、伊達の血を引く当主を戴く家になる。稙宗が生きているあいだ、この網は伊達を守った。
一五四二年、稙宗は子の実元を越後守護の上杉定実の養子に送ろうとした。定実には跡継ぎがなく、伊達の子が越後の守護になる話である。稙宗にとっては、網をもう一段広げる一手だった。
嫡男の晴宗がこれに反対する。実元に多くの家臣を付けて送り出せば、伊達の力はそのぶん削れる。すでに何人もの兄弟が外の家の当主になっており、そこへ越後まで加われば、家督を継ぐ晴宗の取り分は減る一方だった。
晴宗は父を西山城に幽閉した。稙宗は脱出し、相馬をはじめとする姻戚を頼って兵を挙げる。天文の乱である。
このとき奥羽の家々は、縁の向きによって二つに分かれた。娘を迎えた相馬や田村は稙宗方に立ち、ほかの家では家中がそのまま割れた。稙宗の子でありながら大崎の当主になっていた義宣は、実家との板挟みのすえ晴宗方に討たれている。
縁を結んだ相手が多いほど、割れたときに巻き込まれる家も多い。網は敵を減らす仕組みだったはずが、内輪が割れたとたんに、争いを奥羽じゅうへ配る仕組みへ変わった。
稙宗の側に立った家の多くは、娘を受け取った家である。娘を出した先は舅である稙宗に付き、子を入れた先は当主が伊達の血なので動きにくい。晴宗に付いたのは、縁の薄い家と、伊達の血が入るのを嫌った家中の勢力だった。誰がどちらに付くかは、あらかじめ図の上に書いてあったことになる。
戦は一五四八年まで続き、和睦して終わった。稙宗は隠居し、晴宗が家督を継ぐ。伊達の本拠は米沢へ移された。
六年の内戦で伊達は南奥州での主導権を落とし、蘆名や田村が力を伸ばした。稙宗が広げた縁は残ったが、それを束ねる力のほうが弱くなっていた。
晴宗の子が輝宗、その子が政宗である。輝宗の妻の義姫は出羽の最上義守の娘で、最上義光の妹にあたる。父の代に敵味方へ分かれた家と、また結び直したことになる。
そして政宗の正室になったのが、図の右下にいる愛姫である。愛姫は田村清顕の娘で、清顕の母は稙宗の娘だった。つまり愛姫は稙宗の曾孫であり、政宗も稙宗の曾孫である。二人はまたいとこにあたる。
稙宗が田村へ入れた縁は、四代目で伊達の当主の結婚として戻ってきた。網が広ければ、いずれ自分の家へ帰ってくる線が出る。
一五九〇年、政宗は弟の小次郎を斬った。母の義姫が小次郎を立てようとしたためと伝えられ、義姫はそののち実家の最上へ帰っている。父の代の縁組が父子を割ったのと同じ形が、こんどは母方の縁で繰り返された。
義姫は最上義光の妹である。伊達と最上は縁戚でありながら、奥羽の主導権を争う間柄でもあった。婚姻でつながっているからこそ、相手の家の跡目に口を出す道が開く。縁は外からの攻撃を防ぐが、内側からの干渉は防げない。
婚姻は家と家を縫い合わせるが、縫い目は力のかかる場所でもある。稙宗の網は、外との戦を減らすかわりに、内輪の対立をそのまま奥羽全体へ流す通り道になった。
それでも政宗が奥羽をまとめられたのは、この網の上を歩けたからである。攻める相手の多くが親類であり、寝返らせる相手も親類だった。稙宗が広げたものは、二代のあいだ災いとなり、四代目で武器になっている。同じ一枚の網が、誰が使うかで意味を変えた。網を張った当人が、その網に足を取られたことになる。それでも網そのものは、四代先まで残った。