記事

本願寺の法主:血で継ぐ宗門が大名になった

日本の家系図はたいてい、土地か官職を誰が継ぐかを示している。本願寺の系図が示すのは、教えを説く資格である。親鸞から数えて十一代のあいだ、法主は一本の血でつながっている。そしてその家は、戦国のなかばには十万を超える門徒を動かし、織田信長と十年戦うまでになった。図の縦一本の線が、そのまま宗門の歴史になっている。

娘の家から始まる

親鸞は寺を持たず、弟子の集まりを残しただけだった。その墓所を守ったのが末娘の覚信尼である。京の大谷に廟堂を建て、東国の門徒がその維持を支えた。

血のつながりが問題になるのは、この廟堂の管理をめぐってである。覚信尼の孫の覚如が、廟堂を寺として整え、みずから住持となった。親鸞の子孫であることを、教えを継ぐ資格として立てたことになる。

門徒の側から見れば、開祖の血を引く者が中心にいるほうがまとまりやすい。宗派の権威が、そこで系図と結びついた。

蓮如という転回

八代目の蓮如が出るまで、本願寺は小さな寺である。蓮如は平易な手紙を各地へ送り、講という単位で門徒を組織した。加賀では門徒が守護を倒し、およそ百年にわたって国を自分たちで治めている。

蓮如には二十人を超える子があった。その子たちを各地の寺へ入れ、寺と寺を血でつないでいく。伊達稙宗が奥羽の家々へ子を配ったのと、やり方はまったく同じである。違うのは、配った先が寺だったことだけである。

大名としての本願寺

証如顕如の代には、石山に本拠を構えた。大坂の要地で、堀と塀を持つ城に近い。門徒からの上納があり、諸国の門徒はそのまま動員できる兵になる。

顕如は武田信玄の妻の妹を妻に迎えた。三条公頼の娘どうしである。大名と縁を結ぶことも、他の大名と変わらない。宗教の家でありながら、動き方は戦国大名そのものだった。

門徒は年貢を納める百姓でもある。大名にとっては、領内の民が別の主人に従っていることになる。信仰の組織が土地の支配と重なった時点で、衝突は避けられなかった。

十年の戦い

一五七〇年、顕如は信長と戦うことを決め、諸国の門徒に檄を送った。石山合戦である。長島でも越前でも一向一揆が起き、信長はそのつど徹底して殺した。

十年たった一五八〇年、正親町天皇の仲介で和睦が成り、顕如は石山を退去する。ところが長男の教如は籠城を続けると言い張り、父と対立した。

二つに割れる

退去のあと、顕如は教如を義絶し、三男の准如に跡を継がせると定めた。顕如が一五九二年に死ぬと、教如が一度は法主になったが、豊臣秀吉が准如を立てるよう命じる。

一六〇二年、徳川家康が教如に京の東側の土地を与えた。ここに東本願寺が建ち、准如の西本願寺と並ぶ。血で継ぐ家が二つに割れ、どちらも親鸞の子孫であることを根拠にした。

分けたのは家康である。一つの宗門が十万の門徒を動かせることを、石山合戦が示していた。二つに割っておけば、同じことは起きない。

割ったあと

東と西は、そのあと別々の教団として続いた。教えの違いはほとんどない。分かれ目にあるのは、顕如の長男と三男という系図上の位置だけである。

イスラムでジャアファル・サーディクの二人の子から宗派が分かれたのと、形はよく似ている。血で継ぐと決めた宗門では、跡目の争いがそのまま宗派の分裂になる。

いまも続く

法主の職は、その後も血で継がれた。江戸の宗門は寺請制度の下に置かれ、大名と戦う勢力ではなくなる。それでも系図だけは切れずに残り、両本願寺の門主はいまも親鸞の子孫である。

八百年近く一本の線が続いている家は、日本では皇室のほかにあまりない。

図の読み方

この図には、横の枝がほとんど描かれていない。蓮如の二十人を超える子も、顕如の三人の子のところまでは省いてある。

宗門の系図は、正しい一本を確かめるためのものだからである。誰が法主だったかだけが問題で、それ以外の子は別の寺の系図に移る。最後の三つ又だけが描かれているのは、そこで一本が二本になったからだった。

血で継ぐと決めることは、跡目を争う余地をなくすように見えて、実際には争いの場所を一か所に集める。土地なら分ければ済むが、教えを説く資格は分けられない。だから割れるときは、宗門ごと二つになる。

門徒の側は、どちらに付くかを土地ごとに選んだ。教えが同じなら、選ぶ基準は縁でしかない。四百年たったいまも、東と西のどちらが多いかという分布は、当時の縁のまま地図の上に残っている。法主の家の跡目争いが、そのまま土地の分かれ目になったことになる。系図のたった一点の分岐が、四百年ぶんの地理としていまも地図の上に写っていることになる。分かれた場所は、いまでも縦の線を一段さかのぼれば確かめられる。