九六年から一八〇年までの五人の皇帝は、五賢帝と呼ばれる。前の皇帝が有能な人物を養子に迎え、血ではなく能力で位を渡した時代として語られてきた。ところが系図を引くと、別の事情が見えてくる。五人のうち四人には、継がせる息子がいなかった。
九六年にドミティアヌスが暗殺され、元老院はネルウァを選んだ。六十を過ぎた老人で、前の王朝とも有力な軍団とも縁が薄い。誰の脅威にもならないことが選ばれた理由である。図でネルウァが一人で立っているのは、実際に誰ともつながっていないからである。
ネルウァには子がなかった。軍が不満を示すと、九七年に上ゲルマニアの総督だったトラヤヌスを養子にする。翌年ネルウァは没し、トラヤヌスが継いだ。能力による選抜というより、軍に押された妥協である。
トラヤヌスにも子はいなかった。次のハドリアヌスは、まったくの他人ではない。
トラヤヌスの姉マルキアナの孫娘サビナが、ハドリアヌスの妻である。ハドリアヌス自身もトラヤヌスと同じヒスパニアの一族の出で、幼くして父を失ったあとトラヤヌスが後見していた。
養子縁組はトラヤヌスの死の床で行われたとされ、妻のプロティナが仕組んだという噂が当時から流れている。血で継げないところを、婚姻と縁故が埋めている。
ハドリアヌスにも子はなかった。最初に選んだ養子が早く死んだので、一三八年にアントニヌス・ピウスを養子にする。
このときハドリアヌスは条件を付けた。アントニヌスはマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの二人を養子にせよ、という指定である。自分の次だけでなく、その次まで決めた。
マルクス・アウレリウスは、アントニヌスの妻の大ファウスティナの甥にあたる。父の小アンニウス・ウェルスが大ファウスティナの兄である。ここでもまったくの他人を選んだのではない。
アントニヌス・ピウスには男子が育たず、娘の小ファウスティナが残った。マルクス・アウレリウスはこの小ファウスティナと結婚している。
マルクスから見れば、小ファウスティナは伯母の娘、つまり従姉妹である。養子として名を受け取り、婚姻として家の血を受け取った。ユリウス=クラウディウス朝が使ったのと同じ組み合わせである。
五人めのマルクス・アウレリウスには、息子がいた。コンモドゥスである。
マルクスはこの子を一七七年に共治帝とし、一八〇年に自分が死ぬと単独の皇帝になった。有能な養子を探すことはしていない。実子がいたので実子に継がせた。
ここで五賢帝の説明が崩れる。養子で有能な者を選んだから良い時代だったのではなく、四代続けて実子がいなかったから養子を取るしかなかった、と読むほうが系図には合う。
コンモドゥスは剣闘士として競技場に立ち、自らをヘラクレスになぞらえた。一九二年に側近に殺される。翌年は五人の皇帝が争う内乱になった。
勝ったセプティミウス・セウェルスは、自分をマルクス・アウレリウスの養子だと宣言している。血のつながりがないので、養子縁組を過去へさかのぼって主張した。名だけを継ぐという使い方である。
トラヤヌスはヒスパニアのイタリカの出で、属州の生まれとしてはじめて皇帝になった。ハドリアヌスも同じ町の一族である。アントニヌス・ピウスの家はガリアから出ており、次のセウェルス朝はアフリカの出身になる。
血縁で継がない仕組みは、出身地の縛りも外した。誰の子であるかで決まらないなら、どこの生まれであるかも問われない。帝国の中枢がイタリアの外へ開いていく過程と、養子による継承が重なったのは偶然ではない。
ローマの養子縁組は、日本や中世ヨーロッパのものとは働き方が違う。成人を養子にでき、財産と名と地位をまとめて渡せる。血縁の外から後継を選べる仕組みが、最初から用意されていた。
そのぶん、実子がいれば養子は要らない。制度が血を超えたのではなく、血が足りないときに制度が働いた。マルクス・アウレリウスがコンモドゥスに継がせたのは例外ではなく、制度の本来の姿である。
十八世紀の歴史家ギボンは、この時代を人類がもっとも幸福だった時期と呼んだ。その評価が、養子による選抜という説明を広めた。
ギボンがこの時代をそう評価した背景には、十八世紀のヨーロッパで王位が生まれだけで決まっていたこともある。血によらない継承という考え方は、当時の読者にとって理想として響いた。
だが五賢帝のうち四人は、選びたくて選んだのではない。継がせる息子がいなかっただけである。系図は、後世の物語を一度ほどいて見せる。