記事

オスマン家の兄弟殺し:法典から黄金の檻へ

オスマン帝国では、新しい皇帝が即位すると兄弟が殺された。残虐な慣習に見えるが、これは内乱を避けるための決まりとして法典に書かれている。二百年のちにその慣行をやめたとき、代わりに置かれたのが黄金の檻であった。

兄弟が争う家

オスマン家には、長子が継ぐという決まりがなかった。位につくのは、父が死んだときに都を押さえた息子である。皇子たちは若いうちから地方の知事として送り出され、そこで人と兵とのつながりを作った。父が死ねば、誰が先に都へ着くかの競争になる。

この仕組みは、有能な者が勝ち残るという点では働いた。だが敗れた側が生き残れば、必ず反乱の旗になる。一四〇二年、バヤジット一世がアンカラでティムールに敗れて捕らわれると、四人の子が十一年にわたって争った。空位時代である。帝国は解体しかけた。

法典に書かれた兄弟殺し

コンスタンティノープルを落としたメフメト二世は、この争いを制度として整理した。自分の名で発した法典に、わが子のうち位を得た者は、世の秩序のために兄弟を殺してよい、と記させたと伝えられる。

殺人を認める条文ではなく、内乱を避けるための条文だという理屈である。実際、即位した皇帝は兄弟とその男子を絞め殺した。刃を使わず絞殺が用いられたのは、王族の血を地に落とさないためであった。

セリム一世は兄弟を退け、父バヤジット二世に位を退かせて即位している。メフメト三世は一五九五年の即位にあたり、十九人の弟を一度に殺した。棺が並んで運び出される様子を、都の人々が目にしている。

息子を殺す父

兄弟殺しは、即位した者だけが行うものではなかった。スレイマン一世は在位中の一五五三年、長男のムスタファを軍営に呼び出して殺させている。ムスタファは兵に人気があり、老いた父を退けて立つと疑われた。のちには別の子バヤジットも、ペルシアへ逃げた先で殺された。

背景には後宮の争いがある。スレイマンが正式に妻としたヒュッレムは、自分の生んだ子を残すために動いたと伝えられる。生き残ったセリム二世がヒュッレムの子であった。皇子の母たちが政治の当事者になっていく、この時期からの変化を女人の天下と呼ぶ。

皇子が宮廷から出なくなる

メフメト三世を最後に、皇子を地方の知事として送り出すこともやめた。地方に出れば人が集まり、兵がつく。都に置いておけば、その芽は生まれない。ただし裏を返せば、皇子は人を治めた経験も、軍を率いた経験も持たないまま育つことになる。

即位した者が兄弟を殺し、生き残った皇子は宮廷から出ない。十六世紀の終わりに、オスマン家はこの二つを同時に抱えることになった。

黄金の檻

一六〇三年、十三歳で即位したアフメト一世は、弟のムスタファを殺さなかった。理由ははっきりしない。自分にまだ子がなく、弟を殺せば家そのものが絶えるという事情があったとされる。

代わりに取られたのが幽閉である。皇子たちは後宮の奥の一画に閉じ込められ、外へ出ず、人にも会わない。この場所をカフェス、黄金の檻と呼ぶ。命は助かるが、外の世界を知らないまま何十年も過ごすことになる。

アフメト一世が没すると、幽閉されていたムスタファがそのまま即位した。ムスタファ一世である。ただし政を執れる状態ではなく、二度立てられて二度退けられた。

年長者継承へ

アフメト一世からムスタファ一世への継承をきっかけに、オスマン家の決まりは変わっていく。父から子へではなく、一族のなかで最も年長の男子が継ぐ形である。兄弟で争う必要も、殺す必要もなくなった。

代償もあった。即位する皇帝は、それまでの人生を檻の中で過ごしている。十七世紀以降、帝国の政治は大宰相と、皇帝の母である母后が動かすようになった。

家系図の上では、この転換がはっきり現れる。メフメト三世までは、即位した者の兄弟の枝が一斉に切り落とされている。アフメト一世からあとは枝が残り、そのかわり、残った枝は檻の中で順番を待つことになった。

母后の力

皇帝が檻から出てくるようになると、政の中心は後宮へ移った。皇帝の母であるヴァリデ・スルタンが国政に深く関わり、幼い皇帝の代には事実上の摂政となる。十七世紀半ばのキョセムとトゥルハンは、その代表である。二人は最後に対立し、キョセムは殺された。

兄弟殺しをやめたことで、皇子は生き延びられるようになった。そのかわり、皇帝の力は宮廷の内側で分けられていく。制度を穏やかにすれば争いがなくなるのではなく、争う場所が移るということでもある。

家の続け方を変えれば、家の姿も変わる。オスマン家は兄弟を殺す家から、兄弟を待たせる家になった。そのどちらの時期にも、帝位を継ぐ者は自分では選べなかった。