神聖ローマ帝国は九六二年、オットー一世のローマでの戴冠から数えるのがふつうである。ところがその帝位を出したザクセン朝は、それから六十年ほどで絶えた。皇帝を四人出しながら、家として続く枝をほとんど残さなかった家である。
東フランク王国でカロリング家の男系が絶えたあと、ドイツの諸公は自分たちのなかから王を選ぶようになった。九一九年に選ばれたのがザクセン公ハインリヒ一世である。
ハインリヒ一世は、王が諸公の上に立つのではなく、諸公の第一人者として振る舞った。教会からの塗油の儀式も受けていない。まだ王権は弱く、マジャール人の侵入も止められていなかった。
子のオットー一世は違った。九三六年、アーヘンでカール大帝の座に着き、塗油を受けて即位する。カロリング家の後継者として振る舞うという宣言であった。
最初の妻はイングランド王の娘エディットで、その子リウドルフを世継ぎとした。弟のハインリヒと甥は繰り返し反乱を起こし、諸公も背いた。オットー一世は身内との戦いに二十年を費やしている。
九五一年、オットー一世はイタリアへ入り、先王の未亡人アーデルハイトを助けて妻に迎えた。この結婚でイタリア王位への筋が通った。九五五年、レヒフェルトの戦いでマジャール人を破り、ドイツを守った王として名を得る。そして九六二年、ローマで教皇から皇帝の冠を受けた。
オットー一世が採った統治のやり方は、家系図と深く関わる。世俗の諸公に領地を与えれば、その子孫が世襲して王から離れていく。そこで司教や修道院長に土地と権限を与え、彼らを帝国の役人として使った。帝国教会政策である。
聖職者には正式な子がない。死ねば領地は王のもとへ戻り、次の司教を王が任じられる。世襲されない家臣を作る仕組みであった。オットー一世の弟ブルーノがケルン大司教となったのも、この方針の一部である。
のちの叙任権闘争は、この仕組みを教皇の側から取り上げる争いであった。
オットー二世は、ビザンツ皇帝の縁者テオファヌを妻に迎えた。東ローマの王女を娶ることは、西の皇帝が正統を主張するうえで重い意味を持った。ただし南イタリアではビザンツとイスラム勢力に敗れ、二十八歳で没している。
跡を継いだオットー三世は三歳であった。母テオファヌが摂政となり、その死後は祖母アーデルハイトが後見した。成人したオットー三世はローマに宮廷を置き、古代帝国の再興を掲げた。学識ある教師を側に置き、その一人はのちに教皇シルウェステル二世となる。
そのオットー三世は一〇〇二年、二十一歳で没した。妻を迎える前であり、子はいなかった。
家系図の本流はここで途切れる。次に立ったのがハインリヒ二世である。オットー一世の弟でバイエルン公となったハインリヒの孫、つまり喧嘩公と呼ばれたハインリヒの子であった。反乱をくり返した枝から皇帝が出たことになる。
ハインリヒ二世は敬虔な皇帝として知られ、教会を通じた統治をさらに進めた。ただしこの人にも子がなかった。一〇二四年に没して、ザクセン朝は完全に絶えた。次はザーリアー家のコンラート二世が選ばれる。
ザクセン朝が絶えても帝国は続いた。ドイツの王位が選挙で決まる仕組みだったからである。家が絶えれば、諸公が別の家から選び直す。
これは強みでもあり弱みでもあった。断絶で国が消えることはない。そのかわり、どの家も王位を自分のものにできない。皇帝は即位のたびに諸公と取引をし、そのつど何かを譲る。ドイツが領邦の集まりになっていく道筋は、ここから始まっている。
ザクセン朝の系図は、上から下へ一本の細い線と、横に伸びた反乱の枝でできている。本流はオットー三世で止まり、反乱した枝の孫が最後の皇帝になる。
家の続きを確かなものにする策を、この家は打たなかった。聖職者を家臣にする方針は、世襲されない官職を作るには有効だが、一族の男子を教会へ送り込むことでもある。ブルーノが大司教になったように、皇帝の兄弟が聖職に入れば、その枝は次の世代を残さない。統治のうまさと、家の続きやすさは別のことであった。
この家では、皇帝が若くして死ぬたびに女性が政を担った。オットー二世の妃テオファヌは、三歳の子に代わって六年ほど帝国を治めた。ビザンツから来た皇后が、西の帝国を単独で動かしたことになる。その死後は、オットー一世の妃アーデルハイトが孫の後見に立った。
オットー一世の娘マティルデもクヴェートリンブルクの女子修道院長として一族の祭祀と記録を担っている。皇帝が短命で、幼帝が続いた家では、生き残った祖母や母や姉妹が制度の隙を埋めた。家系図の縦の線が細いとき、横の線が国を支えたことになる。