一六八八年、イングランドの議会は王を追い出し、その娘と娘婿を代わりに据えた。さらに一七〇一年には、法律で継承の順番を書き換え、五十人を超える継承権者を飛ばして遠いドイツの選帝侯家へ王位を渡すと定めた。血だけで決まっていた王位を、議会が並べ替えたのである。
一六〇三年にジェームズ一世がスコットランドから入り、子のチャールズ一世が議会と争って一六四九年に処刑された。十一年の共和政のあと、一六六〇年にチャールズ二世が復位する。
チャールズ二世に嫡出の子はなく、弟のジェームズ二世が跡を継いだ。ジェームズ二世はカトリックだった。
ジェームズ二世の最初の妻はイングランド人で、二人の娘メアリー二世とアンはプロテスタントとして育てられた。
だからカトリックの王が立っても、次の代でプロテスタントに戻ると誰もが見込んでいた。ジェームズ二世の在位が三年ももったのは、この見込みがあったからである。
一六八八年六月、ジェームズ二世の二番目の妻が男子を生んだ。カトリックの王子である。見込みはここで崩れた。次の代もその次もカトリックが続くことになる。
同じ月、議会の有力者たちがオランダ総督ウィレムに手紙を送った。ウィレムはメアリーの夫であり、同時にチャールズ一世の娘メアリー(王女)の子でもある。妻とは従兄妹どうしにあたる。
チャールズ二世には十人を超える庶子がいた。長男のモンマス公はプロテスタントで人望もあり、一六八五年にジェームズ二世へ反乱を起こしている。
だが庶子は継承の列に並ばない。反乱は鎮圧され、モンマスは処刑された。血がつながっていても、嫡出でなければ資格にならないのである。三年後に議会が選んだのは、同じ王家の娘とその夫だった。血の順番を無視したように見える名誉革命も、嫡出という枠はまたいでいない。
十一月、ウィレムは軍を率いて上陸した。ジェームズ二世の軍は崩れ、王はフランスへ亡命する。ほとんど血が流れなかったので、名誉革命と呼ばれる。
一六八九年、議会は権利章典を定め、ウィリアム三世とメアリー二世を共同の君主とした。王は議会の同意なしに法を停止できず、常備軍を置けず、課税もできない。王位が血だけでなく議会の承認によって成り立つことが、ここで文書になった。
即位した二人は従兄妹であり、どちらもジェームズ一世の子孫である。図の中で離れていた二つの枝が、この結婚で結び直された。血の筋を保ったまま王を替えた、という体裁を整えたのである。
メアリー二世は一六九四年に子なく没し、ウィリアム三世も一七〇二年に子なく没した。次に立ったのが妹のアンである。
アンは十七回身ごもったが、育ったのはグロスター公ウィリアム一人だった。その子も一七〇〇年に十一歳で死んでいる。ステュアート家のプロテスタントの血が、ここで尽きた。
順番どおりなら、次はフランスにいる異母弟の老僭王ジェームズである。カトリックだった。
議会は王位継承法を作った。カトリック信者と、カトリックと結婚した者は王位に就けないと定めたのである。これによって五十人を超える継承権者が外された。
そのうえで次の継承者を、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーとその子孫と指定した。ゾフィーはジェームズ一世の娘エリザベスの子である。血縁でいえば、飛ばされた者たちよりずっと遠い。
ゾフィーはアンの二か月前に死んだ。一七一四年にアンが没すると、ゾフィーの子であるハノーファー選帝侯が渡英し、ジョージ一世として即位する。英語をほとんど話さない五十四歳のドイツ人だった。
ジョージ一世は政務の多くを大臣に委ね、閣議にもほとんど出なかった。首相と内閣が実権を持つ形は、この王の無関心から固まっていったとされる。議会が選んだ王が、結果として議会へ権力を渡したことになる。
飛ばされた側は諦めていない。一七一五年と一七四五年にジャコバイトの反乱が起きた。血の順番に従えば自分たちが正統だ、という主張である。
ここまでのイングランドの王位争いは、系図の読み方が争点だった。薔薇戦争では男系か女系かで読み替えが起き、テューダー朝の終わりには王の遺言より系図が優先された。
一七〇一年の王位継承法は、そのどちらとも違う。系図をたどることはやめていない。ただし宗教という条件で候補を篩にかけ、残った中で一番近い者を選んだ。血は資格の必要条件であり続けたが、十分条件ではなくなった。
この法はいまも効力を持っている。イギリスの王位継承は、現在もゾフィーの子孫であることを条件としている。三百年前に議会が引いた線の内側で、いまも順番が数えられている。