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持明院統と大覚寺統:皇統が二つに割れた理由

一三三六年から一三九二年まで、日本には天皇が二人いた。吉野の南朝と、京の北朝である。この五十六年の根をたどると、割れ目は南北朝の始まりよりずっと前、鎌倉の中ごろにある。図のいちばん上に置いた後嵯峨天皇の、二人の子である。

後嵯峨が跡目を決めなかった

後嵯峨天皇は、位を長男の後深草に譲ったあと、弟の亀山を可愛がり、亀山へ位を移させた。さらに亀山の子を東宮に立てている。それでいて、自分が没するときに、どちらの系統へ皇位を伝えるかを決めなかった。

後深草の系統を持明院統、亀山の系統を大覚寺統という。名はそれぞれが住んだ御所に由来する。図の左の枝が持明院統、右の枝が大覚寺統である。この二本は、以後百年にわたって並び立つ。

二つの御所、二つの家産

分かれたのは血筋だけではない。皇室の所領も二つに分かれた。持明院統は長講堂領、大覚寺統は八条院領という荘園群を継いでいる。

これが分裂を長引かせた。位を継げない期間でも、それぞれが自前の財で家を保てる。負けた側が消えないので、次の機会を待てばよい。争いが百年続いたのは、意地が強かったからではなく、待てるだけの元手があったからである。

両統迭立 — 鎌倉が決める皇位

跡目が決まらないまま、二つの系統が同じ資格を主張した。仲裁に入ったのは幕府である。幕府は両統から交互に天皇を立てる形を取らせた。両統迭立という。一三一七年には、幕府の仲介で在位の年限まで取り決められている。文保の和談と呼ばれるものである。

これで争いは収まらなかった。誰が次に立つかも、何年で譲るかも、鎌倉の裁定しだいになる。天皇は自分の子へ位を伝えられず、決められた期間だけの中継ぎになった。皇位が家の内側の順序ではなく、外にいる武家の判断で動くようになったこと。これがこの時期のいちばん大きな変化である。承久の乱で朝廷が武家に敗れた結果が、ここに出ている。

後醍醐が型を拒む

大覚寺統から立った後醍醐天皇は、この形を認めなかった。自分の子へ位を伝えるつもりであり、そのためには幕府の裁定そのものを消すしかない。倒幕は理念の話である前に、跡目の話だった。

一三二四年の正中の変、一三三一年の元弘の変と二度企てて失敗し、後醍醐は隠岐へ流される。しかし一三三三年に幕府は滅び、後醍醐は京へ戻って建武の新政を始めた。

建武の新政が倒れる

新政は長く続かなかった。後醍醐は天皇がみずから政務を執る形を目指し、摂政も関白も置かず、幕府も置かない。しかし倒幕の実際の力を出したのは武士である。恩賞の配分は武士の期待に届かず、公家を重んじる政策が続いた。二年半で足利尊氏が離反する。

後醍醐がこだわったのは、自分の子へ位を伝えることだった。そのために幕府を倒し、そのために新政を敷いた。裏を返せば、両統迭立という仕組みが、一人の天皇に朝廷の形そのものを変えさせたことになる。

二つの朝廷

一三三六年、尊氏は持明院統の光明天皇を京に立てた。後醍醐は吉野へ移り、自分こそ正統だと主張する。ここで朝廷が二つ並ぶ。

図の左の枝の下にいる光厳と光明が北朝、右の枝の下にいる後村上が南朝にあたる。北朝には足利が付き、南朝は吉野の山中に留まった。位を継いだ者の数でいえば北朝が多いが、歴代の天皇として数えられているのは南朝の側である。この数え方が定まったのは明治に入ってからで、正統をめぐる争いは五百年後まで尾を引いた。

南朝が長く持ちこたえたのは、兵の強さよりも、系図の上で正統を主張できたからである。三種の神器を持ち、大覚寺統の直系であることが、そのまま戦う理由になった。北朝も同じで、持明院統の直系であることを根拠にしている。どちらも同じ理屈で、同じ祖先から自分の正しさを引いていた。

南朝はこの主張を書物にも残している。北畠親房の『神皇正統記』は、皇位が誰へ伝わるべきかを神代からたどって説いたものである。系図をたどることが、そのまま政治の主張になった時代だった。

一三九二年、足利義満の仲介で、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇へ神器を渡して合一する。このときも両統から交互に立てるという約束が交わされたが、守られなかった。以後、皇位は北朝の系統だけに伝わっていく。両統迭立は、始まりと終わりの二度、守られない約束として現れたことになる。

割れ目はどこにあったか

南北朝の争いは、後醍醐の意地でも尊氏の野心でもない。図をたどれば、割れ目は後嵯峨の二人の子にある。跡目を決めずに没した一人の天皇が、百年後の分裂を用意したことになる。皇位の継承が家の中で決まらなくなったとき、決めるのは外の力になる。鎌倉が裁き、次は室町が裁いた。

そして両統迭立は、その分裂を防ぐための仕組みだった。交互に立てれば公平に見えるが、どちらの系統も自分の子へ伝えられない。争いを止めるための仕組みが、争いを絶やさない仕組みになっていた。