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記紀の皇統:神代から継体天皇へつないだ系図

古事記と日本書紀の系図は、起きたことの記録である前に、皇位が正しく伝わってきたことを示すための系図である。神から始めて一本の線でつなぐ。その線が一度切れかけたことも、同じ書物が書いている。図の根が二本あるのは、神代の系譜と、切れ目を継いだ系譜を並べたからである。

神から人へ渡す五代

天照大神から神武天皇までは五代である。天照大神の子の天忍穂耳尊、その子の瓊瓊杵尊が高天原から地上へ降りる。天孫降臨と呼ばれる場面である。以後、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊と続き、その子が初代の神武天皇になる。

図で見ると、この五代は代ごとに后を迎えている。瓊瓊杵尊の妻の木花之開耶姫は山の神の娘、彦火火出見尊の妻の豊玉姫と、鵜葺草葺不合尊の妻の玉依姫は海の神の娘とされる。天から降りた血に、地の血を三代重ねてから人の世の初代が生まれる。神と人のあいだを、婚姻でなだらかにつないでいる。

二つの書物が同じ系図を書いた

古事記は七一二年、日本書紀は七二〇年に成った。ほぼ同じ時期に、同じ王家の系図を二つ作っている。古事記は物語として読ませ、日本書紀は年を追う記録の形を取るが、骨になる系譜はおおよそ重なる。

二つ作られたのは、どちらかが失敗したからではない。内へ示すものと外へ示すものを分けたという見方がある。いずれにせよ、系譜を文字に定着させること自体が事業だった。口で伝えられていたものを書き留めれば、以後は書かれたほうが正になる。誰が継げるかを争うとき、参照する先が一つに定まる。

系図は事績を語らない

神武のあと、事績のほとんど伝わらない天皇が何代も続く。のちに欠史八代と呼ばれる部分である。名と系譜と在位年だけがあって、中身がない。

これは系図の役目を考えると理解しやすい。系図は何をしたかを語るものではなく、切れていないことを示すものである。中身が空でも、つながってさえいれば役目は果たされる。

系図と年代

記紀は初期の天皇に長い在位と長寿を与えている。神武の即位を紀元前六六〇年に置き、百歳を超える天皇を何人も並べた。実際の年代とは合わないと考えられている。

これも系図の役目から見ると筋が通る。中国の史書に並ぶだけの古さを示すには、代の数を増やすか、一代を長くするしかない。名を増やせば一代ごとの重みが薄くなるので、一代を延ばした。系図は血のつながりを示すだけでなく、王家がどれだけ古いかを主張する道具でもある。

一度切れかけた

仁徳天皇の子孫が続いたあと、直系は細っていく。雄略天皇が同族を多く討ったこともあり、確実な後継が乏しくなった。武烈天皇に子がなく、大和の中に継ぐ者が見つからない。

実はその前にも一度、都の外から連れ戻している。雄略に父を討たれた王子の子である顕宗と仁賢が、播磨で見つけ出されて即位した。系譜をたどって探しに行く形は、すでに一度使われていた。継体はその二度目にあたり、距離が一段と遠くなっている。

五世孫という距離

迎えられた継体天皇は、応神天皇の五世孫とされ、越前から来たと伝えられる。図の右の枝がその系譜で、応神の子の稚野毛二派皇子から、意富富杼王、乎非王、彦主人王と下って継体に至る。五代さかのぼってようやく共通の祖先に届く距離である。今の感覚でいえば、血縁としてはごく薄い。

それでも即位できたのは、応神の子孫だと系図で示せたからである。武力でも人望でもなく、系図が資格を決めている。逆にいえば、系図さえたどれれば、どれほど遠い枝からでも継げるということでもある。

皇位を継いだ女性

図には出していないが、この時代には女性の天皇も立っている。推古、皇極、持統がその例で、いずれも直系の男子が育つまで位を預かる形だった。

系図の上では、女性が継いでも線は切れない。父が天皇であれば資格はあり、その子へ渡せる。細るのは、渡す先の男子が生まれなかったときである。継体を五世孫まで探しに行ったのも、近いところに渡す先がなかったからだった。

接ぎ木だったとしても

継体の距離の遠さから、実際には別の家系の出で、応神につながる部分はあとから継ぎ足されたのではないかという見方もある。確かめる術はない。

ただ、仮に継ぎ足しだったとしても、そのこと自体が同じ結論を指す。皇位を継ぐには系図が要り、系図がなければ作ってでも示す必要があった。記紀の系図が神代から始まっているのは、その要請をいちばん上まで延ばした結果である。

系図は過去を写したものではなく、いま位に就いている者を支えるために書かれる。神代から続く一本の線は、結論として先に置かれていて、そこへ届くように過去が並べられた。記紀を読むときは、この向きを覚えておくと迷わない。神話は系図の前置きであり、系図は即位の根拠である。