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倭の五王:讃・珍・済・興・武は誰か

五世紀の日本には、同時代に書かれた自国の記録がない。かわりに中国の史書に、倭の王が五人出てくる。讃・珍・済・興・武である。この五人が記紀の系図のどこに当たるのかを決める作業は、事績ではなく続柄を手がかりに進む。宋書が書き残したのは、誰が誰の弟で、誰が誰の子かという関係だけだからである。図はその照合の相手になる系図である。

中国の史書に出てくる五人

宋書の倭国伝によれば、四二一年に倭王が使いを送った。讃が死んで弟のが立ち、次に、済が死んで世子の、興が死んで弟のが立つ。四七八年に武が送った上表文は、祖先が東西の国々を平定したと述べる長い文章で、原文がそのまま残っている。

この五人は、宋から安東将軍や倭国王の称号を求めた。称号は朝鮮半島での立場に関わるので、彼らにとって実利のある外交だった。

名がどれも漢字一字なのは、中国側が名乗りを縮めて記したためと考えられている。だから五人の名前そのものからは、誰であるかがほとんどわからない。手がかりになるのは、宋書がわざわざ書き添えた続柄のほうである。

武は動かない

五人のうち、比定がほぼ固まっているのはである。雄略天皇にあたる。埼玉の稲荷山古墳から出た鉄剣に獲加多支鹵大王と刻まれており、熊本の江田船山古墳の大刀にも同じ名が読める。この二つが東西で出たことは、上表文の内容とも合う。

名前を漢字一字で表すとき、雄略の和風諡号である大泊瀬幼武の末尾を取れば武になる。同じやり方で興を安康、済を允恭に当てる読み方もある。

三代がそろう

宋書は、済が死んで世子の興が立ち、興が死んで弟の武が立ったと書く。父と、その二人の子という並びである。

記紀の系図を見ると、允恭の子に安康と雄略がいる。安康が兄、雄略が弟で、安康が殺されたあとに雄略が立った。宋書の記述と、この三代がそのまま重なる。図の右下の三人が、五王のうち三人を占めることになる。

允恭の長子には木梨軽皇子がいたが、同母の妹との関係を理由に廃されて死んだ。だから兄弟のうち安康が先に立ち、その安康が殺されて雄略が立つ。世子が継ぎ、その弟が継いだという宋書の並びは、記紀の伝える経緯とよく合う。

讃と珍

讃が死んで弟の珍が立ったという記述に当てはまるのは、仁徳の子である履中と反正である。この二人は兄弟で、履中のあとに反正が立った。だから讃を履中、珍を反正とする読み方が有力になる。

ただし讃を仁徳とする説も古くからある。仁徳と履中は父子なので、その場合は珍を履中に当てることになり、兄弟という記述と合わなくなる。ここは決着がついていない。

つながらない一点

宋書は、済がそれまでの王とどういう関係かを書いていない。珍と済のあいだだけ、続柄の記述が抜けている。

記紀では、履中・反正・允恭は仁徳の子で、三人とも兄弟である。兄弟が順に立ったのなら、宋書はそう書いてもよさそうなものである。書かなかったことをどう読むかで、系図の当てはめ方が変わる。血のつながりが薄い王が入ったのだと見る説もあれば、たんに記述が漏れただけだと見る説もある。

なぜ使いを送ったのか

五人が求めたのは、倭だけでなく百済や新羅を含む地域の軍事権を認める称号だった。宋はそのうち百済を除いて認めている。

朝鮮半島での立場を、中国の皇帝に文書で保証してもらう。国内で誰が大王かを争っているあいだも、外から与えられた称号は動かない。系図の正しさを外部の権威に裏書きさせるやり方は、のちの時代にも繰り返される。

系図で人物を決める

ふつう歴史の人物は、何をしたかで特定される。五王の場合は逆で、誰の弟か、誰の子かという位置だけがわかっていて、その位置に合う人物を系図から探す。

この作業ができるのは、記紀の系図が続柄まで細かく書かれているからである。事績の記述には潤色があっても、系図の骨格は別の資料と突き合わせられる。系図が史料として強いのは、こういう場面である。

図の読み方

図の中で、五王に当てはめられる候補は上から下へ四代のあいだに収まっている。仁徳の子が三人並び、そのうちの一人の子がまた二人並ぶ。兄弟が順に立ち、次の代へ移り、また兄弟が順に立つ形である。

宋書が書いたのは、まさにこの形だった。誰と誰が兄弟で、誰が誰の子か。名前は一字に縮められ、事績もほとんど伝わらないが、系図の形だけが五十年を越えて残っている。

記紀は八世紀に編まれた書物で、五世紀の記述をそのまま信じることはできない。それでも宋書という外の史料と続柄が噛み合うなら、その部分は確かめられたことになる。系図が別々の場所で一致するとき、その一致そのものが、ひとつの独立した証拠として働くことになる。