スパルタには王が二人いた。片方が死ねば片方が残るという交代の仕組みではなく、常に二つの家から一人ずつ、同時に王位にあった。ギリシアの他の都市にも、その後のヨーロッパにも例のない形である。
スパルタの伝承では、ヘラクレスの子孫アリストデモスに双子が生まれた。エウリュステネスとプロクレスである。どちらが兄かを決められなかったので、二人ともを王としたという。
エウリュステネスの子孫がアギス家、プロクレスの子孫がエウリュポン家と呼ばれた。実際には、二つの有力な氏族が争いを避けるために折り合った結果と考えられている。伝承は、その折り合いを神話の形で正当化したものである。
王の権限は限られていた。政を決めるのは五人の監督官(エポロス)と長老会であり、王は軍を率い、祭祀を執り、対外の使者を受ける役であった。二人いるので、一人が遠征に出てももう一人が都に残れる。
同時に、王どうしは互いの見張りでもあった。片方が力を持ちすぎれば、もう片方と監督官が組んで抑える。王を二人置くことは、王を弱く保つ仕組みでもあった。
そのかわり、二人の意見が割れると軍が動かない。前六世紀の遠征では、二人の王が現地で対立して兵を引いた例がある。以後、遠征に出るのは一人だけと決められた。
二つの王家が並ぶことの難しさが最もよく出たのが、前六世紀末の一件である。アギス家のクレオメネス一世と、エウリュポン家のデマラトスが対立した。
クレオメネスが使った手は、王位を武力で奪うことではなかった。デマラトスは前王アリストンの子ではない、という主張である。アリストンは長く子を得られず、三人目の妻を迎えてすぐにデマラトスが生まれた。生まれた知らせを聞いたアリストン自身が、日を数えて自分の子ではないと口にしたという話が残っていた。
クレオメネスはデルフォイの神託を買収し、デマラトスは王の子でないという答えを得た。デマラトスは廃され、遠縁のレオテュキデスが代わりに立てられた。
王位が血で決まる仕組みでは、血を疑うことが最も強い武器になる。剣を使わずに王を一人減らせたことになる。
廃されたデマラトスはペルシアへ亡命した。クセルクセスに仕え、ギリシア遠征の助言をしている。ヘロドトスは、彼が本国へ危険を密かに知らせたとも伝える。蝋を削った板に文字を書き、その上に蝋を塗り直して送ったという話である。
王位を追われた者が敵国の王の側に立つ。二つの王家があるということは、負けた側が行く先を持つということでもあった。
クレオメネス一世に男子はなく、娘のゴルゴがいた。アギス家を継いだのは、クレオメネスの異母弟レオニダス一世である。レオニダスはこのゴルゴを妻とした。つまり甥と叔父ではなく、叔父が甥にあたる娘を娶ったことになる。
前四八〇年、レオニダスはテルモピュライでペルシア軍を迎え、三百のスパルタ兵とともに戦死した。翌年のプラタイアでギリシア軍を率いたのは、レオニダスの甥にあたるパウサニアスである。まだ幼いレオニダスの子の摂政として、その位にあった。
このパウサニアスは、のちにペルシアと通じたと疑われ、神殿へ逃げ込んだところを入口を塞がれて死んだ。テルモピュライとプラタイアを担った家は、二代のうちに一人を戦死で、一人を疑いで失った。
五世紀から四世紀にかけては、エウリュポン家のほうが目立つ。ペロポネソス戦争を戦ったアギス二世、その弟でギリシア各地に遠征したアゲシラオス二世である。アゲシラオス二世は四十年以上王位にあり、スパルタの覇権の時代を代表した。
そしてその晩年、前三七一年のレウクトラでテバイに敗れて覇権が崩れる。市民の数が減り、土地が少数の家に集まり、軍を出せなくなっていた。
スパルタの王の系図は、二本の幹が並んで下りていく図になる。交わることはあっても混じらない。片方が絶えれば、その家の傍系から補われた。
二人の王を置くことは、どちらの家にも国を一人で動かさせないための工夫であった。うまく働いた時期は長い。ただし、血筋が王位の唯一の根拠であるかぎり、争いは血筋そのものへ向かう。デマラトスの一件は、王位を血で決める制度の弱点を、そのまま示している。
前三世紀、クレオメネス三世は土地の再分配と市民の増員に踏み切り、監督官の職を廃した。二人の王の制度も、事実上一人に集めた。改革は前二二二年のセラシアの戦いで潰え、王はエジプトへ逃れた。
二つの王家は、この時期に相次いで絶えた。八百年近く続いたと伝えられる仕組みは、それを守るための改革によって終わったことになる。