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マケドニア朝:女帝が正統を運び、婿が帝位についた

ビザンツ帝国でいちばん長く続いたのがマケドニア朝である。百八十年余り、帝位はこの一族から離れなかった。ただし皇帝になった人の半分は、この家に生まれた男ではない。皇女と結婚して入ってきた軍人たちであった。

馬丁から皇帝へ

バシレイオス一世は、アルメニア系の農民の家に生まれた。都に出て力士として名を上げ、皇帝ミカエル三世の目に留まって側近になった。皇帝の愛人を妻として与えられ、共同の皇帝にまで登り、八六七年にその皇帝を殺して位を奪った。

この一族がマケドニア朝と呼ばれるのは、バシレイオスの出た地方の名によるものである。血筋も家柄も持たない人が始めた王朝であった。

父が誰かという問い

跡を継いだレオン六世には、生まれをめぐる噂が付いていた。母がミカエル三世の愛人だった人であり、レオンは前の皇帝の子ではないかと言われていたのである。バシレイオス一世自身、この子を疑って幽閉した時期がある。

王朝の二代目に、すでに血筋の疑いがあった。それでも位は動かなかった。ビザンツでは、皇帝であることを支えるのは血よりも、宮廷と軍と教会の承認だったからである。

四度目の結婚

レオン六世は賢帝と呼ばれ、法典を整えた。ところが跡継ぎに恵まれなかった。妻を三度迎え、三度死なれ、男子が育たない。

教会は三度目までを容認したが、四度目は認めなかった。それでもレオン六世はゾエ・カルボノプシナを宮廷に入れ、生まれた子を認めさせようとした。生まれたのがコンスタンティノス七世である。皇帝は総主教と対立し、破門を受けながらも結婚を押し通した。四婚問題と呼ばれる。

コンスタンティノス七世につけられたポルフュロゲネトス(紫に生まれた者)という称号は、宮殿の紫の産室で生まれた、つまり在位中の皇帝の正嫡であることを示す。生まれの正しさが問われた子だからこそ、この称号が重く使われた。

書く皇帝

コンスタンティノス七世は帝位にあった四十六年のうち、二十五年をほとんど何もできずに過ごした。妻の父ロマノス・レカペノスが共同皇帝となり、実権を握ったからである。婿ではなく、義父が入ってきた形である。

その年月に、皇帝は書物を作った。帝国の周りの民族と外交の手引き、宮廷の儀式の記録、農業や兵法の抜き書き。今日ビザンツ帝国の実務がわかるのは、この皇帝が政から遠かったおかげである。

婿が皇帝になる

孫のバシレイオス二世が五歳、その弟が二歳のときに父ロマノス二世が没した。母テオファノは、まず将軍ニケフォロス二世フォカスと結婚してこれを皇帝に立てた。次にその部下ヨハネス一世ツィミスケスが皇帝を殺し、こちらが位についた。

二人はいずれも、幼い皇帝たちの後見人という名目で帝位についている。子どもを廃さないのは、正統がその子の側にあるからである。実力を持つ軍人が皇女と結び、正統を借りて統治する。マケドニア朝の帝位は、この形でつながっていく。

バシレイオス二世は成人すると自ら政を執り、五十年在位した。ブルガリアを併合し、帝国の版図を東西に広げた。生涯結婚せず、子はなかった。

二人の皇女

弟のコンスタンティノス八世の子は娘だけであった。ゾエテオドラである。ここから、正統の担い手がはっきりと女性になる。

ゾエは五十歳で最初の結婚をし、夫を皇帝にした。ロマノス三世である。この夫が浴室で死ぬと、宮廷の若者ミカエル四世と結婚してこれを皇帝にした。次にその甥を養子としてミカエル五世とし、その人に修道院へ送られると、都の民衆が怒って皇帝を廃した。最後にコンスタンティノス九世と結婚し、三人目の夫を皇帝にしている。

皇帝が四人代わっても、正統はゾエ一人のなかにあった。妹のテオドラも一〇五五年から単独で統治し、翌年に没して王朝は終わる。

家系図で見ると

マケドニア朝の系図は、細い一本の縦線に、横から何本もの線が入ってくる形である。縦線は皇女たちで、横線は結婚して入ってきた軍人と宮廷人である。皇帝の名を並べても系図は読めない。皇女の名を並べると読める。

女性が帝位につけない制度でも、女性が正統を独占することはできる。そのとき権力は、その女性と結婚する権利をめぐって動く。ビザンツの十一世紀前半の政治は、ほとんどそれで説明がつく。

血筋への愛着

興味深いのは、都の民衆がこの家に強い愛着を持っていたことである。ミカエル五世がゾエを修道院へ送ったとき、暴動が起きて皇帝が引きずり降ろされた。馬丁から始まった王朝が、二百年で正統そのものになっていたことになる。

家柄のない人が始めた家が、代を重ねるうちに血筋の権威を得る。それを最後に体現したのが、紫の産室で生まれた二人の老いた皇女であった。