パレオロゴス朝は、ビザンツ帝国で最も長く続いた王朝である。一二六一年から一四五三年まで、二百年に届く。ところがその二百年の大半は、一族の内側の戦いに費やされた。争う者はそのつど外の力を借り、最後にはその外の力に国を渡した。
第四回十字軍でコンスタンティノープルを失ったあと、ギリシア人の亡命政権はニカイアにあった。ここで幼い皇帝ヨハネス四世ラスカリスの後見となったのがミカエル八世パレオロゴスである。
ミカエル八世は共同皇帝となり、やがて少年の目を潰して幽閉した。そのうえで一二六一年、コンスタンティノープルを奪い返す。帝都の回復という大きな功績と、正統な皇帝を排除したという負い目を、同時に抱えて始まった王朝である。
西からはシチリアのシャルル・ダンジューが帝都を狙っていた。ミカエル八世はこれを止めるため、一二七四年のリヨン公会議でローマ教会との合同を受け入れた。教皇の後ろ盾を得るためである。
国内の反発は激しかった。ギリシア正教の聖職者と民衆は、これを信仰を売る行為と見た。皇帝の死後、子のアンドロニコス二世はただちに合同を破棄している。以後、西の助けを得るには信仰を譲るしかないという構図が、帝国の最後まで続く。
アンドロニコス二世の治世に、帝国は小アジアの領土をほとんど失った。艦隊を維持できずに解体し、代わりに雇ったカタルーニャの傭兵団が反乱を起こして各地を荒らした。
一三二一年、内乱が始まる。相手は自分の孫アンドロニコス三世であった。祖父と孫が七年にわたって争い、貴族も都市もどちらかに付いた。孫が勝ち、祖父は修道院に入れられた。
国土が縮んでいく途中で、残った国を分けて争ったことになる。
アンドロニコス三世が四十代で急死し、九歳のヨハネス五世が残された。父の親友であったヨハネス六世カンタクゼノスが政を執ろうとし、母后の側と対立して、一三四一年から六年の内戦になった。
この内戦の意味は大きい。両陣営がともに外の軍を呼んだのである。カンタクゼノスはオスマン侯国のオルハンを頼り、娘テオドラをその妻として与えた。相手側はセルビアとブルガリアを頼った。オスマン軍がヨーロッパ側へ渡る道筋は、このとき皇帝を名乗る側から開かれた。
同じ時期に黒死病が都を襲い、人口が大きく減った。国力を回復する機会は、ここで失われた。
内戦はやまなかった。ヨハネス五世は子のアンドロニコス四世に位を追われ、次にそれを奪い返し、さらに孫のヨハネス七世に追われている。三代が同じ帝位をめぐって入れ替わり立ち替わり争った。
争う者はみなオスマンのスルタンに支援を求めた。スルタンは求められるたびに条件を出した。貢納、兵の提供、領地の割譲である。皇帝はオスマンの家臣として、その遠征に従軍することもあった。系図の上では独立した皇帝の家であり、実態は属国の君主であった。
マヌエル二世は、みずからヨーロッパを巡って援軍を求めた。イタリア、フランス、イングランドまで足を運んでいる。ローマ皇帝を称する人が、西の宮廷を回って助けを乞う旅である。得られたのは同情と少額の資金であった。
子のヨハネス八世は一四三九年、フィレンツェで再び教会合同に踏み切った。祖先が一度やって失敗したことをくり返したのである。国内はまた反発し、都では合同を認める聖職者の礼拝に人が集まらなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス十一世は、一四五三年五月、オスマン軍の総攻撃を城壁の上で迎え、そこで戦死した。遺体は見つかっていない。
弟のデメトリオスとトマスは、ペロポネソスのモレアス専制公領を分け合っていた。この二人も互いに争い、一方はオスマンの、他方は西方の支援を求めた。一四六〇年、モレアスも征服される。
トマスの娘ゾエはローマへ逃れ、教皇の後見のもとで育った。一四七二年、モスクワ大公イヴァン三世に嫁ぐ。ロシアではソフィアと呼ばれた。
モスクワはこの婚姻を根拠に、ローマとコンスタンティノープルに続く第三のローマを自任するようになる。双頭の鷲の紋章もこのとき受け継いだものである。滅びた帝国の正統は、系図の一本の線を通って北へ移った。
パレオロゴス朝の系図は、上から下へ長く伸びる。皇帝の数も多い。ところがその線をたどると、隣り合う世代のあいだにいくつも戦いの跡がある。祖父と孫、父と子、兄と弟。
家の内側で争うこと自体は、どの王家にもあった。この家に固有だったのは、争いの相手を外から呼ぶ余地が常にあったことである。西にはローマ教会と商業都市、東にはオスマン侯国がいて、どちらも帝国の内紛に応じる用意があった。内戦のたびに、その代価として何かが渡っていった。