鎌倉幕府を倒した二人、新田義貞と足利尊氏は同族である。図をたどればわかるとおり、源義家の子である源義国から数えて、どちらも八代目にあたる。血の距離はまったく同じで、分かれた場所も同じ一点である。それでも二人の立場は最初から対等でなかった。二百年のあいだに何がついたのかが、この図の主題である。
源義国は上野の新田荘と、下野の足利荘を開いた。長男の新田義重が新田を、次男の足利義康が足利を継ぐ。生まれの順でいえば新田が上である。
武家では長男の家が本家になる。この時点では、新田のほうが格上の家として始まっていた。
差がついたのは頼朝の挙兵のときである。足利義兼はすぐに従い、頼朝の妻の妹を妻に迎えた。北条の婿になったことになる。
新田義重は動きが遅れた。自分も源氏の嫡流に近いという意識があったとも言われる。頼朝に従うのが遅れた家は、御家人の序列で下に置かれた。最初の数か月の判断が、そのあと百五十年の家格を決めている。
義重には、頼朝の求めに応じなかった時期の逸話がいくつも残る。娘を差し出せという求めを断ったとも伝わる。断った理由は誇りだったかもしれないが、御家人の序列は誇りでは決まらなかった。
足利はそのあと、代々北条氏から妻を迎えた。足利義氏の母は北条時政の娘、泰氏の妻も頼氏の母も北条である。得宗家と縁を結び続けた結果、足利は御家人の中で別格の位置についた。
図の右の枝で、同じ深さの新田より足利のほうが名を知られているのは、この積み重ねによる。血の近さは同じでも、婚姻で得た近さが違った。
いっぽう新田は、新田政義の代に無断で出家したことをとがめられ、所領を減らされている。以後は一族が分かれ、山名・里見・岩松といった庶家のほうが力を持った。
義貞が家を継いだとき、新田本家の所領は上野の一部にすぎない。同族の岩松や山名は足利に付いており、義貞は一族すら十分に率いられなかった。
元弘の乱で、義貞は上野で挙兵し、二週間ほどで鎌倉を落とした。同じころ尊氏は京の六波羅探題を落としている。幕府を倒した功は二人に並ぶ。
しかし恩賞と人望は尊氏に集まった。武士の多くは、鎌倉を落とした義貞ではなく、北条の婿の家であり源氏の名門である足利に従う。血統の格が、実際の戦功より重く働いた場面である。
建武の新政が破れると、二人は正面から戦うことになる。義貞は後醍醐天皇の側に立ち、尊氏は幕府を開く側に立った。
箱根、京、播磨と戦い、義貞は次第に押される。
決定的だったのは、味方の質だった。尊氏には全国の武士が付き、義貞に付いたのは南朝の公家と、限られた地方の勢力である。北畠顕家が奥州から二度も上洛したのは、義貞だけでは支えきれなかったからでもある。一三三八年、義貞は越前の藤島で足を取られて討たれた。子の義顕は前年に金ヶ崎で自害しており、義興と義宗は南朝方として関東で戦い続けたが、いずれも滅びた。
新田の名は、そのあと妙な形で使われる。徳川家康が、自分は新田の庶流である得川氏の子孫だと称した。源氏の家として将軍になるための系図である。
足利が二百年将軍を出した家であるのに対し、新田は名前だけが借りられた。同じ祖先から出た二本の枝が、片方は実体として、片方は名分として使われたことになる。
図の左右の枝は、同じ深さまでまっすぐ下りている。世代の数も、祖先までの距離も同じである。それでも二つの家の重さは違った。
系図に描けるのは血の距離だけで、家格は描けない。家格を作ったのは、挙兵に間に合ったかどうかと、誰と結婚し続けたかである。図の縦の線が同じ長さであることが、かえってその差を際立たせている。
血の近さは、資格を与える条件であって、順位を決める条件ではない。同じ資格を持つ者が二人いたとき、どちらを上に置くかは、系図の外にある事情が決めている。新田と足利は、その事情がどれだけ効くかを、八代かけて示した二本だった。
義貞を悪く書いたのは、勝った側の記録である。太平記は義貞を優柔不断に描き、尊氏を人望ある将として書く。同じ血の距離にいた二人のうち、片方だけが名門とされたのは、家格の差がそのまま人物評の差として書き残されたためでもある。系図に描けない差は、そのまま記述のほうへ移って残ることになる。図の上ではまったく同じ形をしていても、読む人の頭の中では、この二つの家は決して同じ形にならなかった。同じ血の距離にいることは、同じ扱いを受けることを少しも保証しなかった。