宋の帝位は、はじめの一度だけ兄から弟へ渡った。その一度が、以後三百年の宋の歴史を決めている。太祖の子孫は退けられ、太宗の子孫が帝位を占め、そして最後にまた太祖の子孫へ戻る。
後周の禁軍を率いていた趙匡胤は、顕徳七年(九六〇年)、北の備えに出た陣中の陳橋駅で部下に推され、黄色の袍を着せられて帝位についた。宋の太祖である。弟の趙光義はこのとき二十一歳で、兄の即位を支えた一人だった。母の杜太后は匡胤・光義・廷美の三人を生んでいる。
太祖は開宝九年(九七六年)に急に没した。前夜は弟と二人だけで酒を飲み、部屋の外からは灯にうつる影と、斧をつく音だけが見えたという話が残る。燭影斧声と呼ばれる。事実は確かめようがないが、位が子ではなく弟へ渡ったことは確かで、この不審は宋のあいだずっと語られ続けた。
太祖は即位の翌年、自分を担いだ将たちを酒宴に招き、兵権を返して地方で豊かに暮らすよう勧めたと伝えられる。杯酒釈兵権である。将軍が皇帝を作る時代を、自分の代で終わらせようとした。以後の宋では文官が武官の上に立ち、科挙で選ばれた人が国を動かす。
弟が継いだことを当時の人が異様だと思ったかというと、そうでもない。五代十国の五十年余りは、幼い君主が立てばその都度、禁軍の将に位を奪われる時代だった。太祖の即位そのものがその一例である。制度で武将を抑えても、幼い皇帝が立てば隙は生まれる。年長の弟が継げば、その隙は小さい。太祖の政策と、弟が継いだこととは、同じ心配から出ている。
太宗(趙光義)の側が示した根拠が金匱の盟である。母の杜太后が臨終のとき、幼い君主が立てば国が保たないことを説き、匡胤の次は光義、その次は廷美、さらにその次は匡胤の子へ返すと約束させ、その誓いを箱に納めたという。証人は宰相の趙普とされた。
約束のとおりには進まなかった。太祖の子の趙徳昭は太平興国四年(九七九年)、遠征の賞が滞ったことを進言して太宗に責められ、自ら命を絶った。弟の趙徳芳も二年後、二十三歳で没している。太宗の弟の趙廷美は謀反を疑われて房州へ移され、そこで没した。
三人が消えたのち、帝位は太宗の子孫だけに残った。金匱の盟を持ち出した趙普は、廷美を退けるはたらきもしている。約束を根拠に立った人が、その約束の残りを消していったことになる。
太宗は二度にわたって北伐を試み、燕雲十六州を取り戻そうとして、どちらも敗れた。以後の宋は北に対して守りに回る。帝位の正しさに不審を抱えたまま、対外的にも威を示せなかったことが、この皇帝の立場を苦しくした。
太宗のあとは子の真宗(趙恒)、その子の仁宗(趙禎)と続いた。仁宗は四十年余り在位したが、生まれた皇子はみな早くに失われている。跡は濮王の子を養子に迎えて継がせた。英宗である。ここでも実の父子ではつながっていない。
英宗の子が神宗、その子が哲宗と徽宗、徽宗の子が欽宗である。靖康二年(一一二七年)、金の軍が開封を落とし、徽宗・欽宗をはじめ皇族のほとんどを北へ連れ去った。靖康の変である。太宗の子孫は、この一度でほぼ根こそぎ失われた。
難を逃れた徽宗の子の趙構が南へ移り、高宗として宋を継いだ。南宋である。高宗にも趙旉という子がいたが三歳で亡くなり、以後は生まれなかった。
高宗が跡継ぎに選んだのが趙昚、のちの孝宗である。趙昚は高宗の養子であり、実の血筋は太祖の子の趙徳芳から七代目にあたる。太宗の子孫が北へ連れ去られたのち、宋の帝位は百八十年をへて、はじめの太祖の血筋へ返った。金匱の盟が語った「匡胤の子へ返す」という一節が、まったく別のいきさつで果たされたかたちになる。
孝宗は南宋の皇帝のなかで最も評価が高い。以後の南宋の皇帝は、すべて太祖の子孫である。帝位は三百年をかけて、兄の家から弟の家へ渡り、また兄の家へ戻ったことになる。
帝位の正しさに不審を抱えた王朝は、正しさを別のところで示そうとする。宋が科挙を大きく広げ、最終の試験である殿試を皇帝みずから行うようにしたのもその一つである。合格者は皇帝の門下生とされ、家柄ではなく試験で選ばれた官僚が国を運ぶ体制ができた。
太宗は文治の方針を父祖から受け継いだのではなく、自分の立場を固めるために推し進めた面がある。武将に担がれて立った兄と違い、弟には担いでくれる軍がなかった。頼れるのは文の官僚のほうである。宋が中国の歴史のなかで例外的に文人の国になった背景には、この一度の兄弟継承がある。
家系図の上では、宋の三百年は一つの大きな回り道である。兄の家から弟の家へ渡った帝位が、外からの一撃で弟の家ごと失われ、残っていた兄の家の枝に戻る。誰も設計しなかった経路であった。