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源氏将軍三代の断絶と摂家将軍

鎌倉幕府を開いたのは源頼朝だが、源氏の将軍は三代で終わっている。頼朝、頼家、実朝。三人めが殺されたのは、幕府が開かれてから二十七年後である。以後の将軍は京から迎えられた。摂関家から二人、皇族から四人。実権を握った北条氏が、それでも将軍の座を空けなかったのはなぜか。系図をたどると、将軍という座が最後まで血の資格で保たれていたことが見えてくる。

二代目は廃された

頼朝は一一九九年に没した。跡を継いだ源頼家は十八歳である。一二〇三年、病に伏したところで外戚の比企氏が滅ぼされ、頼家自身も出家させられて伊豆の修禅寺へ送られた。翌年、そこで殺されている。頼家の子の一幡も比企とともに死んだ。

三代目は甥に殺された

代わって立ったのが弟の源実朝である。十二歳だった。歌を詠み、官位を上げ、右大臣にまで昇ったが、子はできなかった。

一二一九年正月、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式を終えた実朝を、公暁が斬った。公暁は頼家の子で、実朝の甥にあたる。実朝を父の仇として討ったと伝えられる。公暁もその日のうちに討たれた。一日のうちに、将軍と、将軍になり得た者が同時に消えたことになる。

近い血が残っていなかった

このとき困ったのは、頼朝の血に近い男子が誰も残っていなかったことである。

頼朝は弟たちを残さなかった。義経は一一八九年に追われて死に、範頼は一一九三年に伊豆で誅された。阿野全成も一二〇三年に殺されている。実朝の死の直後には、全成の子の阿野時元が兵を挙げて討たれ、源頼政の孫の源頼茂も京で討たれた。半年のうちに、源氏を名のって将軍になり得る者が掃かれている。

将軍が世襲の座である以上、誰かを据えなければならない。だが据えられる血がない。

皇子を求めて断られる

北条政子と義時は、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えたいと申し入れた。皇族を据えれば、血の格は文句のつけようがない。

後鳥羽はこれを拒んだ。皇子を東へ渡せば、幕府に皇位の一部を預けることになる。かわりに条件を出し、交渉は決裂した。二年後に承久の乱が起きる。

頼朝の妹の曾孫

そこで選ばれたのが、九条道家の子の九条頼経である。二歳だった。

なぜ九条家なのか。系図の右の枝をたどると分かる。頼朝には同母の妹がいた。坊門姫である。坊門姫は公家の一条能保に嫁ぎ、その娘の一条全子が西園寺公経の妻になった。全子の娘の西園寺掄子が九条道家に嫁ぎ、生まれたのが頼経である。

つまり頼経は、頼朝の妹の曾孫にあたる。頼朝の直系ではなく、父方をたどっても源氏ではない。それでも頼朝の血につながると言える最も近い候補が、この二歳の子だった。血の濃さではなく、たどれるかどうかが資格だったのである。

最後の直系

頼朝の直系は、まだ一人だけ残っていた。頼家の娘の竹御所である。

一二三〇年、竹御所は頼経と結婚した。竹御所は二十八歳、頼経は十三歳で、十五も年が離れている。血の薄い将軍に、頼朝の直系を接ぎ直す縁組だった。

一二三四年、竹御所は難産で死んだ。子も死産だった。源頼朝の直系の血は、ここで完全に絶えている。

将軍が求心点になる

頼経は一二二六年に将軍宣下を受け、一二四四年に子の九条頼嗣へ譲った。摂家将軍と呼ばれる二代である。

ところが頼経は鎌倉で育ち、成人すると独自の人脈を持ちはじめた。北条氏の分家である名越氏や、有力御家人の三浦氏が頼経のまわりに集まる。将軍は実務を持たないが、御家人が集まる名分にはなった。

一二四六年、北条時頼が執権になった直後に、頼経を担ぐ動きが露見した。宮騒動である。頼経は京へ送り返され、翌年には三浦氏が宝治合戦で滅ぼされた。一二五二年には子の頼嗣も廃されている。

飾りであるはずの将軍が担がれた以上、飾りとして無害ではない。幕府が将軍を京から迎え、成人したころに帰す形を繰り返したのは、このためでもある。

宮将軍へ

頼嗣に代わって迎えられたのが、後嵯峨天皇の皇子の宗尊親王である。かつて後鳥羽が断った皇子将軍が、承久の乱を経て今度は実現した。以後、惟康親王、久明親王、守邦親王と、幕府が滅びるまで宮将軍が続く。

座だけが残った

実権はどの代も執権にあった。にもかかわらず、幕府は将軍を空席にしなかった。

御家人と幕府の関係は、将軍と御家人の主従関係として成り立っている。御恩と奉公は、将軍という個人へ結ばれた約束だった。将軍がいなければ、御家人が誰に仕えているのかが説明できなくなる。

血の資格だけを持ち、実務を持たない座。それが源氏三代のあとに残った将軍職である。京から人を迎え続けたのは、鎌倉にその資格を持つ者がいなくなったからにほかならない。頼朝が弟たちを一人ずつ消していったことの請求書が、三代あとに届いた形でもある。