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フラウィウス朝:はじめて実の子が帝位を継いだ

ローマの帝位は、はじめの百年は養子と再婚でつながっていた。血のつながりよりも、家の名を継ぐことが大事だったからである。それを変えたのがフラウィウス朝である。父から実の子へ、そしてその弟へ。ローマではじめて、実の血筋がそのまま帝位を渡した王朝であった。

四人の皇帝の年

六八年、ネロが自ら命を絶ってユリウス=クラウディウス朝が絶えた。あとを継ぐ血筋がなかった。翌六九年、四人が次々に皇帝を名乗る。ガルバ、オト、ウィテッリウス、そしてウェスパシアヌスである。

ウェスパシアヌスは、ユダヤの反乱を鎮めるために東方にいた将軍であった。エジプトの穀物を押さえ、ドナウの軍団の支持を得て勝った。ここではっきりしたのは、皇帝を作るのは元老院ではなく軍団だということである。

家柄のない皇帝

ウェスパシアヌスの家は、イタリア中部の地方の家である。祖父は百人隊長、父は徴税と金貸しをしていた。祖先に執政官はいない。ローマの名門から見れば、およそ皇帝の家ではなかった。

それまでの皇帝は、名門の中の名門であるユリウス家とクラウディウス家に属していた。血が足りなければ養子縁組で名を継がせた。ウェスパシアヌスにはその手が使えない。誰の養子になっても、その家の格が足りないからである。

そこでウェスパシアヌスが選んだのが、自分の子を跡継ぎにするという道であった。スエトニウスは、元老院に向けて「わが子が跡を継ぐか、さもなくば誰も継がぬ」と言い切ったと伝えている。家柄で正統を示せない皇帝が、代わりに持ち出したのが実の血筋であった。

二人の息子

妻のドミティラは、皇帝になる前に亡くなっていた。二人の息子と一人の娘を残している。

長男ティトゥスは、父に代わってユダヤの戦いを引き継ぎ、七〇年にエルサレムを落とした。神殿は焼かれ、その戦利品を担ぐ場面が今もローマの凱旋門に彫られている。父は生前からティトゥスを共同の統治者として扱い、護民官の権限も与えた。跡継ぎであることを、制度の上で見せておいたのである。

次男ドミティアヌスは、この間ほとんど役目を与えられなかった。年が離れており、父も兄も軍功を持つのに、自分は都にいた。この差が、のちの猜疑心の下地になる。

二年で終わった治世

七九年にウェスパシアヌスが没し、ティトゥスが継いだ。史上まれな、実の父から実の子への平穏な帝位の継承である。

その治世は二年しか続かなかった。即位の年にウェスウィウス山が噴火してポンペイが埋まり、翌年にはローマで大火と疫病が起きた。父が始めた円形闘技場(コロッセウム)を完成させ、百日の催しを開いた直後、四十一歳で病没している。

ティトゥスの子は娘のユリアだけであった。帝位は弟のドミティアヌスへ渡る。

兄の家系を継げない弟

ドミティアヌスの治世は十五年続いた。属州の統治は堅実で、通貨も建築も整えた。一方で元老院を信用せず、みずから終身の監察官となり、主君にして神と呼ばせた。反対する者は次々に告発された。

世継ぎがいなかった。妻ドミティアとのあいだの子は幼くして死んでいる。そこでドミティアヌスは、いとこにあたるフラウィウス・クレメンスの二人の子を跡継ぎと定め、名を改めさせ、修辞学者クインティリアヌスを教師につけた。それでいて、その父クレメンス自身は処刑している。

九六年、ドミティアヌスは宮廷の陰謀で刺殺された。妻も関わっていたとされる。元老院はその記録の抹消を決め、像は溶かされ、名は碑文から削られた。

血筋から養子へ戻る

跡を継いだのは、フラウィウス家と血のつながりのない老元老院議員ネルウァであった。ネルウァは有力な将軍トラヤヌスを養子とし、以後の皇帝は実の子ではなく、有能な者を養子にして継がせるようになる。五賢帝の時代である。

つまりローマは、実の血筋による継承を一度試して、二十七年でやめたことになる。フラウィウス朝が短く終わった理由は簡単である。三人のうち二人に子がなく、一人の子は娘だけだったからである。

家系図で見ると

フラウィウス朝の系図は、驚くほど小さい。父と二人の息子、娘が一人。そこで終わる。二代目に子がなく、三代目にも子がない家では、血筋を正統の根拠にしたところで続かない。

ローマの皇帝の家系図がその後も養子で伸びていったのは、道徳的な理想からだけではない。血だけに頼ると、二代で行き詰まることをフラウィウス朝が示したからである。血筋か能力かという問いは、そもそも子が生まれるかどうかという偶然に押されて決まっていた。

家柄が変わるということ

ウェスパシアヌスの即位には、もう一つの意味がある。ローマの皇帝はローマの名門でなくてもよい、という前例を作ったことである。

このあと皇帝はイタリアの外から出るようになる。トラヤヌスはヒスパニア、セプティミウス・セウェルスはアフリカの出身である。家柄で決まっていた地位が軍と実力で決まるようになる流れは、地方の徴税人の孫が帝位についた六九年から始まっている。