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義朝の子と木曽義仲:頼朝が兄弟を消すまで

平氏を倒した源氏の一門は、その直後に身内で潰し合った。源頼朝は挙兵から十年ほどのあいだに、弟と従兄弟をほとんど除いている。鎌倉に残ったのは頼朝の直系だけで、その直系も三代で絶えた。図の上半分に並ぶ名は、ほとんどが頼朝より先に死んだ者である。

父の代からすでに割れていた

源為義の子は十人を超える。一一五六年の保元の乱では、長男の義朝が後白河天皇方に付き、為義と弟たちは崇徳上皇方に付いた。勝った義朝は父を斬っている。源氏は平氏より早く、家の中で割れていた。

為義の子義賢は東国へ下り、武蔵の大蔵で義朝の子義平に討たれた。伯父を討ったのは甥である。このとき助けられた義賢の子が、のちの木曽義仲になる。

義朝の子は母で順が決まった

義朝には九人の男子がいた。長男の義平は東国の豪族の娘の子、三男の頼朝は熱田大宮司の娘である由良御前の子である。母の家格が高い頼朝が嫡男とされ、十代のうちに官位を得ている。

六男の範頼は遠江の宿の女の子、七男の全成、八男の義円、九男の義経は常盤御前の子である。一一五九年の平治の乱で義朝が敗れると、義平は処刑され、次男の朝長は落ち延びる途中で死んだ。頼朝は伊豆へ流され、範頼は遠江に隠れ、常盤の三人の子は寺へ入れられた。五男の希義も土佐へ流されている。生き残った者は、どこかへ散らされていた。

挙兵と一門の集結

一一八〇年、頼朝が伊豆で挙兵する。散っていた兄弟が集まってきた。全成が真っ先に駆けつけ、義円と義経が続く。範頼も加わった。木曽義仲は信濃で別に挙兵し、叔父の行家は各地を回って以仁王の令旨を配っている。

図で見ると、この年に動いた者はすべて為義の子か孫である。平氏を追い落とした力は、一門が一度に立ったことで生まれた。

従兄弟を消す

しかし義仲は父を義朝の子に討たれた側であり、頼朝と同格の棟梁として動いた。一一八三年に義仲が先に京へ入ると、二人の関係は崩れる。義仲は人質として子の義高を鎌倉へ送り、頼朝の娘大姫の許婚とした。

一一八四年、義仲は宇治川と粟津で敗れて死ぬ。義高は鎌倉を逃れたが追われて斬られた。大姫は病んで臥し、二十歳ほどで没している。婚姻で結ぼうとした相手を、結んだ側が殺したことになる。

兄弟を消す

義円は一一八一年、墨俣で戦死した。希義は挙兵に応じようとして土佐で討たれている。

義経は一ノ谷・屋島・壇ノ浦で平氏を破ったが、頼朝の許しを得ずに官位を受けたことで退けられた。一一八五年に追われ、奥州の藤原秀衡を頼る。秀衡の死後、跡を継いだ泰衡に一一八九年に討たれた。頼朝はその泰衡も同じ年に滅ぼしている。

範頼は一一九三年、頼朝の身を案じた言葉が謀反の疑いとされ、伊豆へ送られて殺された。全成は生き延びたが、頼朝の死後の一二〇三年、北条と結んだことをとがめられて討たれている。行家も一一八六年に捕らえられて斬られた。

消したあとに残ったもの

一二〇〇年ごろ、幕府の中に残っていた為義の子孫は、頼朝の子だけになっていた。その頼家は一二〇四年に、実朝は一二一九年に殺される。近い血の者がいないので、代わりを立てることができない。将軍の座は、京から迎えた摂家の子と皇族で埋めることになった。

頼朝の妹の子孫は残っていたが、女系である。武家の棟梁を継ぐ資格としては弱い。四代将軍として迎えられた九条頼経は、その妹の血をたどって選ばれている。近い男系がなければ、遠い女系を探すしかない。

空いた場所へ北条が入る

頼朝が兄弟を除いたことで得をしたのは、妻の実家である北条氏だった。源氏の一門が並んでいれば、幕府の中で将軍に一番近い血は弟や甥である。それがいなくなったので、最も近い家は外戚の北条になった。

頼家を廃したのも、実朝を将軍に立てたのも、そのあと京から将軍を迎えたのも北条である。頼朝が自分の手で作った空白へ、そのまま妻の家が入った。落とした枝の数だけ、外戚の取り分が増えている。

分家を残さなかった家

平氏も北条も足利も、傍系を残して家を支えている。頼朝はその逆をやった。兄弟が力を持てば同じ棟梁として立ちうる、という自分の経験がそうさせたのだろう。義仲も義経も、令旨を受けて自分の判断で兵を挙げた人である。頼朝が疑ったことは、事実として起こりうることだった。

危険を除けば安全にはなるが、除いたぶん予備もなくなる。図の横の広がりを削ってしまうと、縦の線が切れたときに継ぐ者がいない。源氏の将軍が三代で終わったのは、平氏との戦のあいだに、家の枝をほとんど自分で落としていたからである。安全と引き換えに差し出したのは、次の代の選択肢だった。