六七二年の壬申の乱は、日本の古代でもっとも大きな内乱である。争ったのは天智天皇の子の大友皇子と、天智の弟の大海人皇子だった。叔父と甥の争いだが、系図を引くとそう単純な形をしていない。両者のあいだには何本もの婚姻の線が渡っていて、勝った側の妃も負けた側の妃も、相手方の血を引いている。
舒明天皇と皇極天皇のあいだに生まれたのが、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)である。同じ父母の兄弟で、兄が中大兄、弟が大海人にあたる。
中大兄は六四五年の乙巳の変で蘇我入鹿を斬り、以後の朝廷を主導した。すぐには即位せず、母の皇極を重祚させて斉明天皇とし、斉明が没したあとも長いあいだ即位しないまま政務を執っている。称制と呼ばれる形である。正式に即位したのは六六八年で、乙巳の変から二十三年が経っていた。
このあいだ、弟の大海人は兄を支える立場にあった。皇太弟、つまり弟が次の位を継ぐ形だったと日本書紀は書く。
天智と大海人のあいだには、もう一つ別の線がある。天智は自分の娘を、弟の大海人に何人も嫁がせた。大田皇女と鸕野讚良皇女がその中心で、ほかに大江皇女と新田部皇女も大海人の妃になっている。
叔父と姪の婚姻である。いまの感覚では近すぎるが、当時の皇族のあいだでは異母きょうだいの婚姻さえ行われていた。血を皇統の内側に閉じ、外の家へ渡さないためである。葛城氏や蘇我氏が娘を入れて外戚になった型を、皇族が自分の内側で塞ぎにいったともいえる。
この婚姻の結果、大海人の子の多くが天智の孫になった。図では大津皇子と草壁皇子を天武の子として出しているが、大津の母は大田皇女、草壁の母は鸕野讚良皇女である。左右に分かれて見える二つの枝は、次の代で一つに合わさっている。
天智の子の大友皇子は、六四八年ごろの生まれとされる。母は伊賀采女宅子娘で、采女は地方の豪族が朝廷へ差し出した女性である。有力な家の娘ではない。
古代の皇位継承では、母方の家の力が資格の一部になる。大友の母方には後見してくれる家がなかった。天智は六七一年に大友を太政大臣に据えている。位を与えて重みを補おうとした形である。
大友の妃は十市皇女で、大海人の娘だった。父の弟の娘、つまり従妹にあたる。この婚姻も、天智と大海人の家を結びつけておくためのものだったはずである。結果としては、乱のなかでもっとも苦しい位置に置かれた人になった。
六七一年、天智は病に倒れた。日本書紀によれば、天智は大海人を枕元へ呼んで後事を託そうとしたが、大海人は辞退し、出家して吉野へ下った。
引き受ければ殺される、と読むのが通例である。大友を立てる流れがすでにできている場で位を譲ると言われても、受ければ謀反の証拠にされる。大海人は髪を落とし、武器を返し、都を離れた。
同じ年の十二月に天智が没した。大友が近江の朝廷を継いだが、即位したかどうかは記録がはっきりしない。明治になってから弘文天皇と追号されている。
六七二年六月、大海人は吉野を出た。妃の鸕野讚良と草壁・忍壁の二子を伴い、伊賀から伊勢へ抜け、美濃へ入る。
大海人が最初にしたのは、不破の道を塞ぐことだった。東国から都へ通じる道である。ここを押さえれば、東国の兵は大海人の側にだけ集まり、近江の朝廷には届かない。大海人には美濃に湯沐邑があり、その管理にあたっていた者が先に兵を集めた。
近江朝廷は大和と河内へも兵を出したが、大和では大海人方が先に勢いを得た。まだ二十歳前後だった大海人の子の高市皇子が、美濃で軍を率いている。七月、瀬田橋の戦いで近江軍が崩れ、七月二十三日、大友皇子は山前で自ら首をくくった。挙兵からおよそ一月である。
大友が死んだとき、妃の十市皇女は父の側に残された。夫を殺したのは実の父である。十市はそののち都で暮らし、六七八年に急に没した。日本書紀は死の理由を書いていない。
系図の線は、事が済んだあとも消えない。勝った側と負けた側を結んでいた婚姻の線が、そのまま一人の人の立場になる。
大海人は六七三年に即位して天武天皇となり、鸕野讚良皇女が皇后になった。皇后は天智の娘である。天智の子を討った政権の皇后が、天智の娘だった。
天武は皇位を子に集めた。六八一年に草壁皇子を皇太子に立てている。六八六年に天武が没すると、皇后は大津皇子を謀反として処刑した。大津は天武の子で、母は皇后の同母姉の大田皇女である。姉の子を退けて自分の子の道を空けたことになる。
その草壁が六八九年に没した。残された孫が幼かったため、皇后が自ら即位して六九〇年に持統天皇となる。持統は六九七年、孫の文武天皇に位を譲った。文武の母の阿閇皇女もまた天智の娘である。
壬申の乱は天武の系統の勝ちで終わった。以後およそ百年、皇位は天武の子孫が継ぐ。だが系図を母方までたどると、その百年を支えたのは天智の娘たちである。持統も、元明となる阿閇皇女も、天智の子だった。
天智と天武が分けたのは皇位であって、血ではなかった。両者の血はすでに一つに縫い合わされていて、どちらが勝っても次の代には両方が入る。だからこそ、のちに天武の男系が細ったとき、皇統は無理なく天智の系統へ戻ることができた。乱で断ち切られたように見える線は、婚姻の側で最初からつながっていた。