魏の皇帝は五人いる。そのうち、前の皇帝の実の子として位についたのは一人だけである。あとは養子と、傍系から連れてこられた少年たちであった。曹操が一代で築いた家は、なぜ二代で他人の手に落ちたのか。系図を並べると理由が見えてくる。
曹操には二十人を超える子がいた。はじめに世継ぎと目されていたのは長男の曹昂である。曹昂は建安二年(一九七年)、宛で降っていた張繍が背いたとき、自分の馬を父に譲って戦死した。曹操は生涯この子の死を悔いたと伝えられる。以後、後継の候補は正室となった卞氏の生んだ子たちに絞られていく。卞氏は曹丕・曹彰・曹植・曹熊の四人を生んだ。
争いは長男の曹丕と三男の曹植のあいだで起きた。曹植は詩才に恵まれて父に愛され、文人がその周りに集まった。曹丕は感情を抑え、実務の側から支持を固めた。建安二十二年(二一七年)、曹操は曹丕を魏の太子に立てる。曹植に付いていた楊修は、のちに罪を得て処刑された。曹植は詩人としての名だけを残し、政治からは遠ざけられていった。
建安二十五年(二二〇年)に曹操が没すると、曹丕が魏王を継ぎ、同じ年のうちに後漢の献帝から位を譲られて皇帝となった。魏の文帝である。四百年続いた漢はここで終わった。曹丕は在位七年で没し、子の曹叡(明帝)が継いだ。
曹叡の母は甄氏で、袁紹の子である袁熙の妻だったところを、鄴が落ちたときに曹丕が娶った人である。甄氏はのちに寵を失い、曹丕の代に死を賜っている。
曹丕は兄弟を警戒した。諸侯王として封じながら、任地をたびたび移し、兵も交遊も与えなかった。曹彰は入朝中に急死し、曹植は封地を転々とさせられたまま四十一歳で没している。曹操が広げた一門は、こうして政治の場から外されていった。魏の皇帝を支える同姓の親族が、はじめから薄かったということである。
同じ曹丕が定めた九品官人法は、地方の人物を九等に分けて官に就ける制度である。運用は各地に置かれた中正官が握り、やがて有力な家柄が上位の品を占めるようになった。皇帝の親族を遠ざけ、家柄のある臣を重く用いる。この二つが重なれば、皇帝を支える力は皇帝の外側にしか残らない。
魏が滅んだのち、晋の史家たちはこの点をくり返し指摘した。同姓の王に力を与えなかったから、異姓の臣に位を奪われたのだ、と。晋を建てた司馬炎はその教訓に従って一族を各地の王に封じたが、今度はその王たちが争って八王の乱を招く。どちらへ振っても難しい問題ではある。
明帝曹叡は実子に恵まれなかった。生まれた子は早くに失われ、幼くして迎えた曹芳を養子として立てる。景初三年(二三九年)に曹叡が没すると、曹芳は八歳で即位した。後見には一門の曹爽と、宿将の司馬懿が並んで置かれた。皇帝の血筋が細く、後見役が重くなるという形がここでできあがる。
曹爽は司馬懿を名誉職へ棚上げし、政を独占した。司馬懿は病と称して十年ちかく引きこもり、見舞いに来た使者の前ではわざと口から粥をこぼしてみせたと伝えられる。正始十年(二四九年)、司馬懿は曹爽が明帝の陵へ参る隙をついて洛陽を押さえ、曹爽とその一族を誅した。高平陵の変である。
以後、実権は司馬氏に移った。曹芳は廃され、曹丕の孫にあたる曹髦が立てられる。曹髦は自ら兵を率いて司馬昭を討とうとして殺され、最後は曹操の子である曹宇の子、曹奐が立てられた。
司馬懿の後は長子の司馬師が継ぎ、その死後は弟の司馬昭が引き継いだ。司馬昭は蜀を滅ぼして(二六三年)功を積み、晋王となる。その子司馬炎が咸熙二年(二六五年)に曹奐から位を譲られ、晋を建てた。曹丕が献帝にさせたことが、四十五年後にそのまま曹氏へ返ったかたちである。曹奐は陳留王として遇され、天寿をまっとうした。
魏の帝位が実の親子でつながるのは、曹丕から曹叡までの二代だけである。あとは養子の曹芳、曹丕の孫の曹髦、さらに遠い曹奐と続く。即位したときの年齢は八歳、十四歳、十五歳で、いずれも自分で政を執れる年ではなかった。
一方の司馬氏は、懿・師・昭・炎と実の父子と兄弟で四代つながっている。血が細って後見に頼るしかない家と、血が濃くて代を重ねられる家が並んだとき、どちらへ実権が移るか。魏と晋の交代は、戦で決まったのではなく、二つの家系図の形の違いで決まったともいえる。
政治から外された曹植は、封地で詩を書き続けた。洛神賦や七哀詩は、この不遇の年月に生まれている。兄に疎まれた弟が七歩あるくあいだに詩を作ったという話は後世の作り話だが、それが長く語られたのは、この兄弟の関係が人の記憶に残ったからである。
魏という王朝は四十五年で終わった。だが曹操・曹丕・曹植の三人が残した詩文は建安文学と呼ばれ、以後の中国の詩の出発点になる。家としては早く消え、文としては長く残ったことになる。