インドで最初に亜大陸の大半をまとめた王朝がマウリヤ朝である。三代目のアショーカは、石に刻んだ詔勅のなかで、自分の子と曾孫の代まで教えを守るよう命じている。ところがその血筋は、王の死から五十年ほどで消えた。石は残り、家は残らなかった。
チャンドラグプタは、紀元前四世紀の末にマガダのナンダ朝を倒して立った。生まれについて、インドの伝承もギリシアの記録も、高い身分ではないと伝えている。王家の出ではない者が、大きな王朝を興したことになる。
支えたのが宰相カウティリヤである。この人に帰される『実利論』は、統治と徴税と諜報を細かく論じた書物で、道徳よりも国家の利益を第一に置く。王朝の骨組みは、この書物が描く官僚と密偵の体制であった。
東方の領土をめぐって、チャンドラグプタはアレクサンドロスの後継者セレウコス一世と戦った。紀元前三〇〇年ごろに和が結ばれ、セレウコス朝はインダス以東の領土をマウリヤ朝へ譲り、代わりに五百頭の戦象を得た。婚姻による縁組も交わされたと伝えられる。
この象は、のちにセレウコス一世が小アジアで勝ちを収めるときに使われた。インドの王朝とギリシア人の王朝が、系図と軍馬でつながった一件である。ギリシアからは使節メガステネスが宮廷に滞在し、その見聞が『インディカ』として断片で残っている。
チャンドラグプタは晩年に位を退き、ジャイナ教の修行者となって断食のうちに没したと伝えられる。
二代目ビンドゥサーラのあと、王位に就いたのがアショーカである。仏教の伝承は、父の死後に兄弟を退けて位を得たと伝える。長兄スシーマとの争いが語られ、多くの兄弟を殺したという話もある。誇張はあるにしても、平穏な継承ではなかったらしい。
即位から八年ほどのち、東海岸のカリンガへ攻め入った。この戦いの死者と捕虜の数を、アショーカは自分の詔勅のなかで挙げ、深く悔いたと記している。勝った王が勝ち戦を悔いる文が石に刻まれているのは、古代の記録としては異例である。
アショーカはこのあと仏教に帰依し、ダルマ(法)による統治を掲げた。命を奪わないこと、親と師を敬うこと、他の宗派を尊ぶことを、各地の岩と石柱に刻んだ。使われた言葉は民衆の話す言葉であり、地域によって文字も変えられた。
仏教の伝道も送り出した。伝承では、子のマヒンダと娘のサンガミッターがスリランカへ渡り、島に仏教を伝えたという。王家の子女を布教に送るという形である。
詔勅のなかでアショーカは、この教えが自分の子と孫と曾孫の代まで続くようにと願っている。家が続くことと、教えが続くことを、同じ願いとして並べていた。
アショーカが没したのは紀元前二三二年ごろである。そのあとの王の名は、資料によって並びも数も一致しない。誰が誰の子であるかもはっきりしない。この不確かさそのものが、王朝の急速な衰えを示している。
領土は分割されたと見られる。北西はギリシア系の王国に押され、南は独立していく。前一八五年ごろ、最後の王が将軍プシュヤミトラに殺され、シュンガ朝が立った。アショーカの死から五十年たっていない。
王朝は消えたが、アショーカが送った教えは残った。スリランカの仏教はそこから続き、東南アジアへ広がった。願いのうち、家の続きは果たされず、教えの続きは果たされたことになる。
アショーカという王の名も、インドでは長く忘れられていた。仏教の伝承には偉大な王の名が残っていたが、各地の石に刻まれた詔勅の主が誰であるかは分からなくなっていた。
一八三七年、イギリスの学者ジェームズ・プリンセプが碑文の文字を解読し、そこに現れる王が伝承のアショーカであることが確かめられた。二千年をへて、石と名前が結び直されたのである。
マウリヤ朝の系図は、三代しかはっきり書けない。祖父、父、子。その下は名前が並ぶだけで、線が引けない。
王朝を作ったのは血筋ではなく、官僚と密偵と軍であった。だからこそ、二代で亜大陸をまとめられた。同じ理由で、王が強くなくなれば地方は離れた。血筋に力の源がない王朝は、速く広がり、速く縮む。
アショーカが石に刻んだのは、家の系図ではなく守るべき教えであった。子と曾孫にそれを託したが、託した先の血筋は残らなかった。残ったのは、彼が石を選んだという判断そのものである。
アショーカの詔勅には、各地に置かれた王子への言葉が残っている。タキシラ、ウッジャイン、トーサリーといった要地に王子を派遣し、その土地の統治を任せていたことがわかる。
広い領土を治めるには、信の置ける代理が必要である。血のつながる子を送るのは、もっとも自然な選び方であった。同じことを、のちのムガル帝国も、オスマン帝国の初期もやっている。
ただし、王子に土地と兵を与えることは、次の代の争いを用意することでもある。アショーカ自身が兄弟を退けて位に就いたのだとすれば、その争いの構図は父の代の配置から生まれていた。そして王の死後、地方の王子たちがそれぞれの土地を保ったことが、王朝の分裂につながったと見られている。