元は九十八年続いた王朝である。そのうち一三〇七年から一三三三年までの二十六年に、皇帝が九人代わった。殺された皇帝が三人、在位が二か月に満たない皇帝が二人いる。モンゴルの集会で選ぶ習わしと、中国式の父子相承が、うまくかみ合わなかったからである。
クビライは中国式の王朝の形を採り入れた。国号を元とし、都を大都に置き、暦と儀礼を整えた。継承についても、子のチンキムを皇太子に立てている。誰が次の皇帝かをあらかじめ決めるという、モンゴルにはなかったやり方である。
ところがチンキムは父に先立って没した。クビライが一二九四年に没したとき、跡を継いだのはチンキムの子テムル、つまり孫であった。しかもその即位は、皇太子の位が自動的に働いた結果ではなく、諸王と将を集めた集会で決められている。
二つの決まりが並んで残ったことになる。生前に定めておく立太子と、そのつど集まって選ぶクリルタイである。片方が指名し、もう片方が承認する形なら問題は起きない。承認する側が別の候補を推せば、争いになる。
集会で決まる仕組みでは、誰を推すかが取引の対象になる。諸王は封地と称号を求め、将は官位を求めた。皇帝が代わるたびに、支持した者へ報いが配られる。
配れるものには限りがある。ある皇帝が配りきってしまえば、次の候補は前の代の受け取り手から奪って配らねばならない。代替わりが多いほど、この奪い合いは激しくなった。
元の朝廷は、冬を大都(北京)で、夏を上都(内モンゴル)で過ごした。移動する宮廷である。この二つの都は、政治の二つの重心にもなった。
大都には中国式の官僚と漢人の官吏が集まり、上都には草原の諸王と軍が集まる。一三二八年、皇帝が急死したとき、大都と上都でそれぞれ別の皇帝が立てられ、両者が戦った。両都の戦いである。勝った大都側のトク・テムルが帝位につき、負けた上都側の少年皇帝アラギバは消えた。在位一か月余りであった。
並べると混乱の様子がわかる。
この二十六年、実際に皇帝を決めていたのは皇族ではなく、有力な将と母后であった。仁宗の母である太后ダギは二代にわたって政に関わり、キプチャク系の将エル・テムルは文宗を立てて権を握った。
血筋は候補者の一覧を示すだけである。そのなかから誰を選ぶかを決めたのは、軍を動かせる人だった。九人の皇帝の系図をたどっても、なぜその順で立ったのかは説明できない。説明するには、そのときどきの将の名を並べる必要がある。
一三三三年、明宗の子トゴン・テムルが十三歳で立った。順帝である。この人は三十五年在位した。長かったのは、権臣どうしが互いを抑え合い、皇帝を替える力を持たなかったからでもある。
その治世に黄河が氾濫し、大規模な治水の徴用が民の反発を招いた。紅巾の乱が広がり、一三六八年、明の軍が大都に迫る。順帝は北へ退き、モンゴル高原で元の号を保った。北元と呼ばれる。
元だけの話ではない。イル・ハン国では一三三五年に君主が没して家系が絶え、国は分裂した。キプチャク・ハン国では十四世紀の半ばに大混乱の時期が来て、二十年余りに二十人以上のハンが立った。チャガタイ・ハン国も東西に分かれ、その西側からティムールが出た。
四つのハン国が、十四世紀の半ばに一斉に継承の混乱を起こしている。チンギス家の血を引く者が各地に増えすぎて、どこでも候補が複数立てられるようになったからである。広い版図を家で分けたことの、最後の帰結であった。
元の皇帝の系図は、クビライの子チンキムの下で三つに分かれ、その三つの枝のあいだを帝位が行き来する形になる。カマラの枝、テムルの枝、ダルマバラの枝である。
直系で下る線がない。従兄弟へ、また従兄弟へと横に飛ぶ。父子相承を持ち込みながら、それを守らせる仕組みを作らなかった王朝の系図は、こういう形になる。皇太子を立てても、集会が別の人を選べるのであれば、立太子は候補者を一人指し示すだけの意味しか持たない。