イスラムの分裂は、教義の違いよりも先に、誰が共同体を率いるのかという問いから始まった。ムハンマドには成人した男子がなく、残ったのは娘のファーティマである。その夫であり、いとこでもあるアリーの子孫を指導者と考える人々が、のちにシーア派と呼ばれた。図の縦の線が、そのままイマームの系譜になっている。
図の根にいるアブド・アルムッタリブはムハンマドの祖父である。その子のアブドゥッラーがムハンマドの父、アブー・ターリブがアリーの父、アッバースがアッバース朝の祖にあたる。
つまりムハンマドとアリーはいとこである。アリーは幼くしてムハンマドに引き取られ、最初期の信者のひとりになった。そのアリーがファーティマを妻に迎えたので、いとこであり婿でもあるという二重の近さになる。図でアリーがファーティマの隣にいるのはそのためで、彼自身はアブー・ターリブの子である。
ムハンマドの男子はいずれも幼くして死んだ。六三二年に彼が没したとき、血で継ぐという道はふさがれている。
共同体はアブー・バクルを後継者に選び、次いでウマル、ウスマーンと続いた。合議で選ぶ方式である。アリーが第四代になるのは六五六年で、そのあいだに二十四年ある。この順序を認めるのがスンナ派、アリーこそ初めから指名されていたと考えるのがシーア派である。
ファーティマとアリーの子がハサンとフサインである。ムハンマドの血を引く者は、この二人から下だけになった。
アリーが六六一年に暗殺されると、ハサンはカリフ位をムアーウィヤに譲って退く。フサインは六八〇年、ウマイヤ朝が立てたヤズィードを認めず、クーファへ向かう途中のカルバラーで一族もろとも討たれた。この日を悼む行事が、いまもシーア派の年の中心にある。
フサインの子アリー・ザイン・アルアービディーンはカルバラーで病のため戦えず、生き延びた。そこからムハンマド・バーキル、ジャアファル・サーディクと続く。イマームは政治の指導者であると同時に、教えを正しく伝える者とされた。
ジャアファル・サーディクの跡目で系譜が分かれる。長子イスマーイールを継承者とみるのがイスマーイール派で、のちにファーティマ朝を建てた。弟のムーサー・カーズィムをとるのが十二イマーム派で、こちらは第十二代が八七四年に姿を隠したまま今も生きていると考える。図の最後の枝分かれが、そのまま宗派の分岐である。
図の右にいるアッバースはムハンマドの叔父である。その子孫が七五〇年にウマイヤ朝を倒してアッバース朝を建てた。
このときアッバース家は、預言者の家の者が立つのだという主張でアリー家の支持者を集め、政権を取ったあとで彼らを退けている。同じ一族の別の枝が、同じ血の近さを根拠にして先に位を取った形である。
枝分かれはジャアファル・サーディクの代だけではない。アリー・ザイン・アルアービディーンの子ザイドを立てる一派はザイド派と呼ばれ、イエメンで千年以上続く政権を作った。
ハサンの子孫の側も消えたわけではない。モロッコに入ってイドリース朝を建て、メッカとメディナの守護をつとめる家にもなった。フサインの子孫がイマームの本流とされる一方で、ハサンの子孫は各地で王朝を作っている。同じ二人の兄弟から、信仰の系譜と政治の系譜が別々に伸びた。
系図がそのまま権威になる社会では、家系の記録が制度になる。ハサンとフサインの子孫はサイイド、シャリーフと呼ばれ、いまも家系を証する記録が受け継がれている。モロッコの王家もヨルダンの王家も、この血を称する家である。
家柄が権威を生むのではなく、権威の根拠として血が選ばれた。選ばれてしまえば、系図は動かせない証拠になる。
この図には、位を争って殺し合う枝がほとんど描かれていない。一本の縦の線が下へ伸びているだけである。
権力の系図なら、横に枝が広がって互いを消し合う。信仰の系図は、正しい一本を確かめるためのものなので、縦にしか伸びない。同じ家系図でも、何のために描くかで形が変わる。
そしてこの縦の線は、途中で切れることを許されない。十二イマーム派が、最後のイマームは死んだのではなく隠れているのだと考えるのは、そのためである。系図が信仰の土台になった家では、断絶は事実の問題ではなく、認めてはならないことになる。線を引き終えないための答えが、隠れているという考え方だった。系図の末端を空けたまま千年待つという形は、ほかのどの家系図にも見あたらない。