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織田の一族と清洲会議:信長の弟と子

織田信長は一族に対して厳しかった。弟を討ち、その子が討たれるのも止めていない。子は他家へ養子に出し、娘は同盟の相手へ嫁がせた。そして一五八二年、本能寺で嫡男もろとも死ぬと、跡目を決めたのは織田の一族ではなく家臣たちだった。図の枝の多さと、そこから残った者の少なさを見比べるとわかりやすい。

信秀の子は多かった

父の織田信秀は尾張の一部を握った家の当主で、男子だけで十人を超える。庶長子の信広、次に信長、そして信行信包長益らが続く。娘にはお市がいる。

信長が家督を継いだとき、これだけの兄弟がいることは支えにも脅威にもなった。実際、信広は今川と通じて一度謀反を企て、許されている。

弟を討つ

信行は母に可愛がられ、家臣にも推す者がいた。一五五六年の稲生の戦いで信長と争って敗れ、一度は許される。翌年ふたたび兵を集めようとしたところを、信長が病と偽って呼び寄せ、清洲城で討った。

家督を争える近さにいる弟は、生かしておけば必ずもう一度立つ。信長の判断はそこにあった。

母の土田御前はこのあとも信長のもとに置かれ、のちに妹のお市が小谷から戻ったときも同じ家にいた。弟を討った当人と、その弟を推した母が、同じ屋根の下で三十年近く暮らしている。

甥は残した

信行の子津田信澄は、殺されずに信長のもとで育てられた。長じて近江大溝の城主となり、明智光秀の娘を妻に迎えている。父を討った相手が、その子を重臣の縁につないだことになる。

本能寺の変が起きると、この縁がそのまま疑いになった。信澄は光秀と通じたと見なされ、大坂で織田信孝と丹羽長秀に討たれる。信行の枝は、二代にわたって同じ家の手で消えた。

子を他家へ入れる

信長は子を近隣の名家へ養子に出した。信雄は伊勢の北畠、信孝は伊勢の神戸を継いでいる。秀勝は羽柴秀吉の養子になった。

家を滅ぼしたあと、その名跡に自分の子を入れて土地を引き継ぐ。後北条が大石や藤田で行ったのと同じやり方である。ただし信長の場合、養子に出した子は他家の当主として立つので、織田の家の中での順位は曖昧になった。

娘を出す

徳姫は徳川家康の嫡男松平信康に嫁いだ。清洲同盟を固める婚姻である。ところが一五七九年、信康は武田との内通を疑われて切腹させられ、母の築山殿も殺された。徳姫が信長へ送った書状がきっかけになったと伝えられる。

婚姻は同盟を強くするが、送り込んだ側の目が相手の家の中で働くようにもなる。妹のお市を浅井長政へ嫁がせた縁も、長政が離反したときには何の役にも立たなかった。

本能寺

一五八二年六月、信長は本能寺で明智光秀に討たれた。同じ日、嫡男の信忠も二条御所で自刃している。当主とその跡継ぎが同時に消えた。

信忠には三法師という三歳の子がいた。信雄と信孝は生きているが、どちらも他家を継いだ身である。誰が織田の家督を継ぐのかを、織田の一族は自分たちで決められなかった。

清洲会議

同じ月、清洲城に家臣が集まった。柴田勝家は信孝を推し、羽柴秀吉は三法師を推す。丹羽長秀と池田恒興が秀吉に同調し、三法師が家督と決まった。信雄と信孝が後見に付く。

嫡孫が継ぐのは筋としては正しい。しかし三歳の当主に実権はなく、後見が二人いれば争いになる。翌年、賤ヶ岳で勝家が敗れて信孝は自害し、一五八四年には信雄が秀吉と戦って和睦した。織田の家は、家臣の争いの旗として使われる側に回っている。

残った枝のその後

三法師は元服して織田秀信と名のり、岐阜を領した。関ヶ原では西軍に付いて岐阜城を落とされ、高野山へ入って若くして没している。信長の嫡流はここで絶えた。

生き残ったのは、家督から遠い枝である。信包の家も長益の家も、小藩ながら江戸を通じて続いた。長益は有楽斎と号して茶の湯の道に入り、大名としてよりも茶人として名を残している。家督を争える位置にいなかったことが、そのまま生き延びる条件になった。

予備の枝が働かなかった理由

徳川は御三家と御三卿を作り、宗家が絶えるたびにそこから当主を入れて続いた。織田にも枝はあった。信雄も信孝も信包も長益も生きている。それでも家は続かなかった。

違いは、枝を家の中に置いたか、外へ出したかである。徳川の枝は徳川のままで、宗家を継ぐことがはじめから役目に入っていた。織田の枝は北畠・神戸・羽柴といった他家の名を継いでおり、戻ってくる道が用意されていない。

そのうえ、家督を決める力が家臣の側へ移っていた。血の順序が跡目を決めるのは、決める側にその気があるあいだだけである。図の枝が広いことは、それだけでは家を守らない。