飛鳥の朝廷を六世紀の半ばから七世紀の半ばまで動かしたのは蘇我氏である。ただし蘇我氏は天皇の位を奪っていない。奪わずに、娘を天皇の妃として入れ、生まれた子を位に就け、その天皇の外祖父あるいは外叔父として実権を握った。血縁と婚姻の線を引かないと、なぜ馬子が天皇を殺しても政権が続いたのか、なぜ入鹿が聖徳太子の子を討てたのかが見えてこない。
蘇我稲目(〜五七〇)は欽明天皇のもとで大臣を務めた。稲目は仏教の受容をめぐって物部尾輿と争っており、蘇我と物部の対立はこの代から続いている。だが稲目が残した最大の資産は、寺でも仏像でもなく、天皇家に入れた娘であった。
稲目は堅塩媛と小姉君という二人の娘を、そろって欽明天皇の妃に入れている。一人ではなく二人だったことが、のちの半世紀を決めた。欽明天皇の皇后は宣化天皇の娘の石姫で、その子が敏達天皇である。皇后の系統には蘇我の血が入っていない。ところが敏達のあとに立ったのは、用明・崇峻・推古と、いずれも稲目の娘が生んだ子であった。
外戚とは天皇の母方の親族である。即位の正統性や後見を母方に頼るとき、母の父や兄弟が朝廷に立つ。稲目の娘が二人とも妃になったことで、どちらの系統から天皇が出ても稲目の子孫が外戚であり続けた。二人を入れたのは保険であり、同時に包囲でもあった。
図では小姉君に配偶者の線を引いていないが、堅塩媛と同じく欽明天皇の妃である。同じく図に出ない続柄として、穴穂部間人皇女は小姉君の娘であり、刀自古郎女は蘇我馬子の娘である。
五八五年に敏達天皇が没し、用明天皇が立った。母は堅塩媛、皇后は穴穂部間人皇女で、小姉君の娘、すなわち用明の異母妹にあたる。この二人の子が厩戸皇子(聖徳太子)で、父方をたどっても母方をたどっても稲目の曽孫になる。
用明は在位二年で没した。次の位をめぐって五八七年に争いが起こり、蘇我馬子は穴穂部皇子を討ち、続いて物部守屋を滅ぼした。稲目の代から続いた対立はここで決着し、蘇我氏に並ぶ豪族は消えた。
立ったのは小姉君の子の崇峻天皇である。だが崇峻は馬子と対立し、五九二年、馬子の意を受けた東漢直駒に殺された。天皇が臣下に殺されながら馬子は失脚せず、代わって敏達天皇の皇后であり堅塩媛の娘である推古天皇が即位した。日本で最初の女帝である。
推古が立てられたのも、この構図で説明がつく。敏達の皇后という前の代からの重みと、堅塩媛の娘という蘇我との血の近さを、一人で兼ねていたからである。
推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三人が並ぶ体制になった。三人はいずれも稲目の血につながる。推古の母方の祖父は稲目であり、馬子はその推古の叔父、厩戸から見れば大叔父にあたる。厩戸の妃の一人刀自古郎女は馬子の娘なので、厩戸と馬子は婿と舅でもある。
この体制のもとで制度が整えられた。
五九六年には馬子が飛鳥寺を建て、蘇我氏の氏寺が朝廷の中心の一つになった。厩戸皇子は斑鳩へ移り、のちの法隆寺となる寺を営んでいる。仏教は稲目の代の争点から、この代には国の骨格を組む道具に変わっていた。
六二二年に厩戸皇子、六二六年に馬子、六二八年に推古が没した。推古は後継を明示しなかった。候補は厩戸の子の山背大兄王と、敏達天皇の孫の田村皇子である。馬子の子の蘇我蝦夷は田村皇子を推し、六二九年に舒明天皇として立てた。
山背大兄王は厩戸皇子の子であり、母の刀自古郎女は馬子の娘である。つまり蝦夷にとっては甥、入鹿にとっては従兄弟にあたる。それでも推さなかったのは、山背大兄王が立てば上宮王家そのものが権威の源になり、蘇我本宗家が後見の座を失うためである。血が近いことと、後見できることは別だった。
蝦夷の子の蘇我入鹿は、六四三年に山背大兄王を斑鳩に襲った。山背大兄王は一族とともに自害し、厩戸の家系である上宮王家は絶えた。ここで蘇我本宗家は、外戚という立場を越えて、皇位継承そのものを決める側に回っている。
六四五年、中大兄皇子と中臣鎌足が宮中で入鹿を斬り、蝦夷は翌日に自邸へ火を放って死んだ。乙巳の変である。稲目から馬子・蝦夷・入鹿まで四代、およそ百年続いた蘇我本宗家の権勢はここで終わった。変のあと都は飛鳥から難波へ移り、朝廷は豪族の合議から天皇と官人の組織へ組み替えられていく。
ただし蘇我氏そのものが滅びたわけではない。変に加わった蘇我倉山田石川麻呂は傍系の蘇我氏であり、その娘は中大兄皇子(のちの天智天皇)の妃となっている。娘を天皇家に入れて外戚となる型は残り、のちに藤原氏がこれを受け継いだ。