平清盛が武士としてはじめて太政大臣になったことは、よく知られている。だが平氏政権の骨格は官職ではない。清盛は娘を天皇に入れ、生まれた孫を位に就けた。藤原氏が三百年かけて使った外戚の型を、武士の家が一代でなぞったのである。安徳天皇は清盛の外孫であり、その天皇を抱いて壇ノ浦に沈んだのは清盛の妻だった。
平氏が中央へ出る道は、白河院の北面の武士である。清盛の祖父の正盛、父の平忠盛が院に仕え、海賊追討や造寺の功で昇っていった。忠盛は殿上人となり、公卿への道が開けた。
一一五九年の平治の乱で源義朝を破ったあと、平清盛に並ぶ武家は消えた。一一六七年、清盛は太政大臣になる。位人臣を極めたことになるが、太政大臣は名誉職に近く、清盛は三か月で辞している。官職そのものが目的ではなかった。
清盛の権力の設計は、婚姻の側に出ている。清盛の妻の平時子は、堂上平氏と呼ばれる文官の家、平時信の娘である。同じ平を名のるが、武士の平氏とは別の系統である。
時子の妹の滋子が、後白河上皇の寵愛を受けた。建春門院である。滋子が生んだ憲仁親王が、一一六八年に八歳で即位した。高倉天皇である。
つまり高倉天皇の母は、清盛の妻の妹だった。清盛は天皇の伯父にあたる立場を、婚姻の縁で先に手に入れている。武力でつくった地位を、婚姻の網へ接続したのがこの段階である。
清盛は娘を二つの方向へ入れた。一人は平盛子で、摂関家の近衛基実に嫁いだ。基実は一一六六年に若くして没し、摂関家の家領は幼い遺児に代わって盛子の管理下に入った。摂関家の経済が、平氏の手のうちへ移ったことになる。
もう一人が平徳子である。一一七一年に高倉天皇へ入内し、翌年に中宮となった。徳子から見れば高倉は母方の従兄弟にあたる。妹の子と自分の娘を結ばせたわけで、時子の家を挟んで血が二重に回っている。
一一七八年、徳子が言仁親王を生んだ。清盛は天皇の外祖父になる道に入る。生まれた年のうちに皇太子へ立て、一一八〇年、三歳で即位させた。安徳天皇である。
ここで清盛が握ったものは、太政大臣の位ではない。天皇の母の父という位置である。藤原良房が清和天皇に対して、道長が後一条天皇に対して立ったのと同じ場所に、武士の家が立った。
ただし藤原氏と決定的に違う点がある。藤原氏は数百年をかけて、朝廷の官職と儀式のなかに家を埋め込んでいた。平氏にその蓄積はない。清盛が握っていたのは、武力と、院との個人的な結びつきと、六波羅の経済である。
そのため清盛は、外戚の位置に立ったあとも力ずくで押さえ続けなければならなかった。一一七九年、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、反対する公卿を大量に解官した。治承三年の政変である。外戚であれば本来いらない手段を、平氏は使わざるを得なかった。
翌年、以仁王が平氏追討を呼びかけて挙兵する。以仁王は後白河の子で、母方に有力な後ろ盾を持たず、皇位から遠ざけられていた皇子だった。押しのけられた者が兵を呼ぶ形は、保元の乱と同じである。
平氏の内部も一枚岩ではなかった。清盛の長男の重盛は時子の子ではない。母は高階基章の娘で、重盛の家は小松家と呼ばれ、宗盛の系統とは別に立っていた。重盛は後白河との関係を保つ側に回り、一一七九年に清盛へ先立って没している。
清盛の弟の平頼盛も、母が池禅尼で、清盛とは異母の兄弟である。頼盛はのちに一門を離れ、源頼朝のもとで生き延びた。かつて池禅尼が頼朝の助命を願ったという縁による。
一一八一年に清盛が没する。二年のうちに平氏は都を追われ、安徳天皇を連れて西へ下った。天皇と三種の神器を擁していることが、平氏に残った最後の正統性だった。
一一八五年、壇ノ浦で平氏は滅んだ。時子は八歳の安徳を抱いて入水した。平宗盛と平知盛も死に、徳子だけが助けられて京へ戻り、大原で余生を送っている。
外戚の型は、孫が位にあるかぎり力を持つ。孫が死ねば終わる。藤原氏の場合、孫が死んでも次の孫を入れる余地が家に残っていた。平氏には残らなかった。娘一人と孫一人へ権力を集めた構造が、その一人が沈んだところで丸ごと消えたのである。
清盛が使った手順は、藤原良房や道長が使ったものと同じである。娘を入れ、孫を位に就け、外祖父として立つ。違ったのは、その型を支える時間と蓄積を持っていなかったことだった。
平氏のあとに立った源頼朝は、この道を選んでいない。京から離れた鎌倉に幕府を置き、天皇の外戚になることを目指さなかった。武士が朝廷の内側で権力を握ろうとした最後の試みが平氏であり、その失敗が武家政権の形を決めたともいえる。