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康熙帝の皇子たち:九王奪嫡と雍正帝

康熙帝は六十一年在位し、三十人を超える皇子をもうけた。長すぎる治世は、跡継ぎの問題をこじらせる。皇太子は二度立てられて二度廃され、残った皇子たちが位を争った。この混乱が、清の継承の仕組みそのものを作り変えることになる。

長すぎた治世

康熙帝は八歳で即位し、六十九歳で没した。在位六十一年は中国の皇帝で最も長い。三藩の乱を平らげ、台湾を取り、ロシアとネルチンスク条約を結び、ジュンガルと戦った。名君の条件はそろっている。

清はもともと、生前に太子を決める家ではなかった。ヌルハチもホンタイジも、有力な一族と旗の主が合議で次を選んでいる。康熙帝はこれを改め、康熙十四年(一六七五年)、二歳に満たない胤礽を皇太子に立てた。漢の制にならった立太子である。

胤礽の母は孝誠仁皇后赫舎里氏で、胤礽を生んですぐに亡くなった。康熙帝はこの子を手元で育て、学問も自分で見た。ところが太子がその治世をずっと待たされることになる。三十年以上を「次の皇帝」として過ごせば、周りは自然と先回りして仕えはじめる。皇帝から見れば、それは自分の死を待つ動きに見える。

康熙四十七年(一七〇八年)、康熙帝は胤礽を廃した。翌年いったん復位させたが、康熙五十一年(一七一二年)に再び廃し、以後は生涯太子を立てなかった。

九王奪嫡

太子の座が空いたことで、皇子たちの争いが表に出た。俗に九王奪嫡という。

  • 皇長子の胤禔は、廃太子を呪詛したことが露見して幽閉された
  • 皇三子の胤祉は学者を集めて書物を編んだが、争いには敗れた
  • 皇八子の胤禩は人望を集めて八賢王と呼ばれ、皇九子の胤禟らがこれを支えた
  • 皇十四子の胤禵は撫遠大将軍として西北へ出て、軍功で名を上げた
  • 皇四子の胤禛は表向き争いから身を引き、寺に通って詩を作っていた

一度目の廃太子ののち、康熙帝は群臣に次の太子を推挙させた。ところが多くの臣が胤禩を推したため、皇帝はかえって警戒し、胤礽を復位させている。皇子の人望が、そのまま失格の理由になった。以後、賢しさを見せることは危うくなり、胤禛のように身を引いてみせるほうが有利になる。

見落とせない点がある。皇四子の胤禛と皇十四子の胤禵は、同じ徳妃烏雅氏の生んだ実の兄弟である。最後まで残った二人が同母の兄弟だったことが、この争いの結末をいっそうこじれさせた。

雍正帝の即位

康熙六十一年(一七二二年)、康熙帝が急に没する。遺詔により位についたのは胤禛、雍正帝であった。このとき胤禵は西北の陣中におり、都にいなかった。

即位の正しさは当時から疑われ、遺詔が書き換えられたという噂も流れた。確かなのは、雍正帝が即位ののち、兄弟を容赦なく処断したことである。胤禩と胤禟は爵を奪われ、屈辱的な名に改めさせられて幽閉のうちに没した。胤禵は陵の守りに就かされ、胤礽は幽閉のまま雍正三年(一七二五年)に没している。兄弟の名にある「胤」の字も、皇帝の名を避けて「允」に改めさせられた。

雍正帝は自分の子にも厳しかった。成人した子は弘時と弘暦だが、弘時は胤禩に近づいたとして籍を除かれ、若くして没している。

太子密建

雍正帝は自分が通った道を残さなかった。太子密建の制を定め、後継の名を書いた詔を二通つくり、一通は乾清宮の「正大光明」の額の裏に納め、もう一通は皇帝が手元に置く。皇帝が没したときに両方を開き、名を合わせて次の皇帝を決める。生前に太子を立てないので、太子の周りに人が集まることも、皇帝が太子を疑うこともない。

この制で選ばれたのが弘暦、乾隆帝である。乾隆帝もまた同じやり方で嘉慶帝を選び、清はこののち、皇子の派閥争いで揺れることがなくなった。康熙帝の晩年の混乱が、そのまま次の制度を生んだかたちである。もっとも、皇帝が一人で決める仕組みは、皇帝が幼ければ働かない。清の末に西太后が続けて幼帝を立てられたのも、この仕組みの裏返しであった。

名前に残った勝敗

康熙帝の皇子たちの名は、いずれも「胤」の字で始まり、二字目に示偏の字が並ぶ。同じ世代であることを字で示す行輩という習わしである。雍正帝が即位すると、兄弟はこの「胤」を「允」に改めさせられた。皇帝の名を口にも筆にもしないという避諱の決まりによる。

家系図に並べたとき、雍正帝ひとりが胤禛のままで、その兄弟が允禔・允礽・允禩と書かれるのはそのためである。誰が勝ったかが、名前の一字目に残っている。乾隆帝の代には処分の多くが解かれ、罪を得た叔父たちの名誉も一部は回復された。

清の皇帝で、皇子どうしの争いを経ずに即位したのは雍正帝より後の代である。継承の仕組みが一つ変わるのに、康熙帝の皇子たち二十人あまりの生涯が費やされたことになる。皇太子を立てないという答えに行き着くまでに、清は建国から百年近くを要したことになる。