家を継ぐのはふつう息子である。息子がいなければ養子を取るか、傍系から入れる。ミラノ公国はそのどちらでもなく、庶出の娘に迎えた婿が公位を受け継いだ。継いだのは傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァで、家柄も血縁も持たない男である。図の中ほどで、姓がヴィスコンティからスフォルツァへ横に移っているのが、その一点にあたる。
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは、ミラノを中心に北イタリアの大半を押さえた。一三九五年、神聖ローマ皇帝に十万フローリンを納めてミラノ公の称号を得ている。称号は買うものだった。
フィレンツェへ攻め込む途上の一四〇二年、疫病で急死する。領土はすぐに崩れた。武力で集めた領土は、集めた当人が死ぬと同時にほどける。
跡を継いだジョヴァンニ・マリーアは暴君と伝えられ、一四一二年に暗殺された。弟のフィリッポ・マリーアが三十五年統治するが、こちらには嫡出の子ができない。
生まれたのは、愛人アニェーゼ・デル・マイノとのあいだの娘ビアンカ・マリーアだけだった。庶出の娘ひとりが、この家に残った唯一の血である。
フィリッポ・マリーアは軍を傭兵隊長に頼っていた。中でも強かったのがフランチェスコ・スフォルツァである。父も傭兵隊長で、家名のスフォルツァ自体が渾名から来ている。
公は自分の軍を握る男を敵に回したくない。そこで一四四一年、ビアンカ・マリーアを彼に嫁がせた。娘を与えて縛る手だが、この場合は与える娘がひとりしかいない。相手を縛る紐が、そのまま家督への通路になった。
一四四七年にフィリッポ・マリーアが死ぬと、ミラノは共和政を宣言した。フランチェスコは外から兵糧を止め、三年後の一四五〇年に入城して公位に就く。
血の上では何の資格もない。あるのは、最後のヴィスコンティの娘の夫であるという一点だけである。それでも公として認められた。継ぐ者が誰もいないとき、いちばん近い縁が正統になる。
フランチェスコの子ガレアッツォ・マリーアは一四七六年に暗殺され、その子ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァが幼くして公になった。後見に付いたのは叔父のルドヴィーコ・イル・モーロである。
ルドヴィーコは甥を退けて自分が公位に就いた。北条が将軍を立てながら実権を握ったのと同じで、後見という位置は乗っ取りの足場になる。レオナルド・ダ・ヴィンチを抱えた宮廷はこの人の代である。
ルドヴィーコが公位を正当化するために持ち出したのも血だった。兄の子は父の即位より前に生まれた、だから公の子ではあっても公位を継ぐ資格はない、という理屈である。血で決まる制度は、血の読み方を変える余地を残している。読み替えられる者が、たいてい実権を持っているほうだった。
図の右端を見ると、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘ヴァレンティーナがオルレアン公ルイに嫁いでいる。その孫がルイ十二世、フランス王である。
ルイ十二世は祖母の血を根拠にミラノの領有を主張し、一四九九年に軍を入れた。ルドヴィーコは捕らえられてフランスで死ぬ。イタリア戦争が半世紀続く発端のひとつが、この一本の婚姻である。
カペー朝で女系を認めるかどうかが百年戦争になったのと、構図はよく似ている。娘を他国へ嫁がせることは、その国に請求権を渡すことでもあった。
ルドヴィーコの子マッシミリアーノとフランチェスコ二世が短く公位に戻ったが、一五三五年に後者が子なく死んで家は絶えた。ミラノはスペインのものになる。
ヴィスコンティが男子を欠いてスフォルツァへ渡り、スフォルツァも男子を欠いて外国の手に落ちた。同じ理由で二度、家が入れ替わっている。
ビアンカ・マリーアが庶出だったことは、結局ほとんど問題にならなかった。ほかに誰もいなければ、庶出でも唯一の血である。家を残す段になると、それまで守ってきた資格の細かい条件は、たいてい下から順に外されていく。
この図で家の名が変わるのは、縦の線ではなく横の線のところである。フランチェスコ・スフォルツァは下から上がってきたのではなく、横から入ってきた。
継承の話は縦に読みたくなるが、継ぐ者がいなくなった家では、横の線のほうが答えを持っている。婿を取るか、娘の嫁ぎ先へ渡すか、その二つしか道がないからである。
ミラノはその両方を順に経験した。婿を取って一度は家名を替えて生き延び、そのあと娘の嫁ぎ先だったフランスに請求され、最後は外国の領土になった。娘をどこへ出すかは、その時点では縁組にすぎない。百年たつと、それが領土の帰属を決める文書になっている。