十五世紀のイングランドで、ランカスター家とヨーク家が三十年にわたって王位を争った。のちに薔薇戦争と呼ばれる内乱である。二つの家は敵どうしだが、他人ではない。どちらもエドワード三世の子孫であり、争点は誰が正しく継ぐかだった。そして答えは、系図をどう読むかで変わった。
エドワード三世は十四世紀の半ばに半世紀にわたって在位し、成人した息子を五人残した。長男のエドワード黒太子、次にクラレンス公ライオネル、ジョン・オブ・ゴーント、エドマンド・オブ・ラングリーと続く。
王の子が多いことは、その代では強みである。息子たちに公爵位と領地を与え、王国の各地を身内で押さえられる。だが代を重ねると、王位の資格を持つ枝がそのぶん増える。薔薇戦争の当事者は、すべてこの五人のうちの誰かの子孫である。
黒太子は父より先に死に、その子のリチャード二世が十歳で即位した。ところが一三九九年、ジョン・オブ・ゴーントの子のヘンリーがリチャード二世を廃位し、みずからヘンリー四世として立った。ランカスター朝の始まりである。
このとき飛ばされたのが、次男クラレンス公ライオネルの家系だった。ライオネルには娘のフィリッパしかいない。フィリッパはモーティマー家へ嫁ぎ、その子孫が続いていた。
女系をたどってよいなら、モーティマー家のほうが三男ゴーントの家より上位にある。だめなら男系だけをたどるゴーントの家が先になる。一三九九年の時点では、後者が武力で押し通された。
ヘンリー五世はフランスで勝ち続けた王だったが、一四二二年に三十五歳で没した。跡を継いだヘンリー六世は生後九か月である。
成長したヘンリー六世は戦を好まず、一四五三年には精神を病んで政務が執れなくなった。王が動かなければ、代わりを誰が務めるかを貴族が争う。護国卿に立ったのがヨーク公リチャードだった。
ヨーク公リチャードの立場は、系図の上で特殊である。
父方をたどると四男エドマンド・オブ・ラングリーに行き着く。順位としては低い。ところが母のアン・モーティマーは、次男クラレンス公ライオネルの子孫だった。母方をとれば、ランカスター家より上位の相続権になる。
つまりヨーク公は、一三九九年に押し通された答えを、もう一度ひっくり返せる立場にいた。彼が護国卿になったとき、たんに王の代役が空いていたという話では済まなくなる。
一四五五年のセント・オールバンズで戦端が開かれた。一四六〇年、ヨーク公はウェイクフィールドで戦死する。だが子のエドワード四世が翌年タウトンで勝ち、王位に就いた。
一四七〇年、有力貴族のウォリック伯が離反してヘンリー六世を復位させる。翌年、エドワード四世はバーネットとテュークスベリーで勝ち返した。ヘンリー六世の一人子のエドワード王子はテュークスベリーで戦死し、ヘンリー六世自身もロンドン塔で死んだ。ランカスターの直系はここで絶えている。
一四八三年、エドワード四世が四十歳で急死した。子のエドワード五世は十二歳である。
摂政となった叔父のグロスター公リチャードは、兄の結婚が無効だったと宣言して甥たちを庶子とし、みずからリチャード三世として即位した。二人の甥はロンドン塔から姿を消し、消息は伝わっていない。
外の家を倒すためにしてきたことを、勝ったあとの家が身内に対して行った。ヨーク家はこれで支持を失う。
ランカスター側で残っていたのはヘンリー七世、当時のヘンリー・テューダーだけだった。血は薄い。
母のマーガレット・ボーフォートは、ジョン・オブ・ゴーントが愛人とのあいだにもうけたボーフォート家の出である。この家はのちに嫡出と認められたが、王位継承からは除くという条件が付いていた。父方はウェールズの家で、祖父がヘンリー五世の未亡人と結ばれた縁にすぎない。
それでも一四八五年、ボズワースでリチャード三世を討って王位に就いた。資格の順位ではなく、生き残っていたことが資格になった。
翌年、ヘンリー七世はエドワード四世の娘のエリザベス・オブ・ヨークと結婚した。ランカスターの資格を主張する男と、ヨークの資格を持つ女である。二人の子は両方の資格を継ぐ。
赤と白を重ねたテューダー・ローズは、この結合の紋章である。薔薇戦争という呼び名自体は後世に広まったもので、当時の人がそう呼んでいたわけではない。
三十年も争ったのは、系図の読み方が二通りあったからである。男系だけをたどるのか、女系も通すのか。当時のイングランドには、どちらとも定まった規則がなかった。
規則が先にあれば、争いは短くなる。日本の皇位が男系でたどれるかどうかだけで決まり、遠い枝から迎えても揉めなかったのは、規則が確定していたからである。イングランドにはそれがなかった。だから系図はいくらでも読み替えられ、最後に答えを決めたのは血ではなく戦場だった。